定軍山の戦い
概要
漢中の南の山で、黄忠が曹操の将軍夏侯淵を斬った。曹操は自ら来て、「鶏肋」と言って引いた。劉備は漢中王になった。関羽が北へ出て、その年のうちに死ぬ。頂点は、その年だった。
場所
33.07°N 107.02°E · 中国・陝西省
本文
漢中は、秦嶺の山々と大巴山に挟まれた盆地である。北へ山を越えれば関中と長安、南へ越えれば益州(いまの四川)に出る。後漢の末、ここは五斗米道の教団を率いる張魯が治めていた。215年、曹操は自ら軍を率いて張魯を降し、漢中を手に入れた。曹操は都へ戻るにあたり、一族の将軍夏侯淵を漢中に残し、張郃らとともに守らせた。
その少し前、劉備は益州の劉璋から成都を奪い、長い流浪の末、赤壁の戦いのあとに得た荊州に続いて、ようやく天険に守られた本拠を得ていた。だが漢中を曹操に押さえられたままでは、益州は北から常に見下ろされる。劉備の謀臣法正は、漢中を取れば、上は敵を倒して漢を立て直す足がかりになり、中は雍州・涼州を削り取れ、下でも要害を固めて長く持ちこたえられる、と説いた。217年、劉備は漢中へ兵を進めた。

戦いは長引いた。劉備は陽平関で夏侯淵らとにらみ合い、一年あまり決着がつかなかった。劉備は益州から兵を絶えず送らせ、諸葛亮が後方で兵糧と兵の補充を支えた。219年の正月、劉備は陽平関から南へ沔水を渡り、山沿いに進んで、定軍山に陣を構えた。夏侯淵の軍は、これを阻もうと押し出してきた。
劉備は夜、夏侯淵の陣の囲みに設けられた鹿角(逆茂木の柵)に火を放って攻めかかった。夏侯淵は張郃に東の囲みを守らせ、自分は身軽な兵を率いて南の囲みを固めた。劉備がまず張郃に戦いを挑むと、張郃の軍は押された。夏侯淵は手元の兵の半分を張郃の救援に割いた。そこを劉備の軍が襲った。法正の進言を受けた劉備は、黄忠に高みから攻め下らせた。黄忠の兵は太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げて駆け下り、夏侯淵を斬った。曹操が任じていた益州刺史の趙顒も討たれた。

総大将を失った魏軍は崩れかけた。郭淮と杜襲は、兵の動揺を鎮めるため張郃を新しい指揮官に推し、張郃は残兵をまとめて陣を立て直した。正史『三国志』によれば、曹操はかねて夏侯淵を戒めていた。将たる者には臆病なときもなければならない、ただ勇だけを頼んではならない、勇を本としつつ知恵と計略で動け、勇しか知らなければ一人の匹夫を相手にするだけの者になる、と。その戒めのとおりの最期だった。
3月、曹操は自ら大軍を率い、長安から斜谷を通って漢中に入った。劉備は「曹公が来ても何もできない。漢川は必ず私のものになる」と言い、要害に兵を集めて、正面からの戦いには応じなかった。注に引く『趙雲別伝』によれば、このとき趙雲は、漢水のほとりで魏の大軍に追われると陣の門を開け放ち、旗を伏せ、太鼓を鳴らさずに静まり返った。伏兵を疑った魏軍が退くと、太鼓を打って追い討ちをかけた。翌朝、陣を見に来た劉備は「子龍は一身これ胆なり」とたたえたという。
両軍のにらみ合いは二か月に及んだ。魏の兵糧は険しい山道を運ばねばならず、逃げる兵も増えた。5月、曹操は全軍を引き揚げた。注に引く『九州春秋』は、この退却の前に曹操が「鶏肋」という言葉を軍令に出したと伝える。部下たちが意味を測りかねる中、主簿の楊修だけが帰り支度を始めた。鶏のあばら骨は、捨てるには惜しいが、食べても肉は無い。漢中もそれと同じだ、王は帰るつもりだ、というのである。楊修はその年のうちに曹操に殺された。正史は、楊修が才知に富み、袁術の甥でもあり、後継を争った曹植の側に立っていたことを曹操が警戒したためと記している。
7月、劉備は沔陽に壇を築き、群臣に推されて漢中王の位に就いた。献帝には上表して、その次第を伝えた。かつて劉邦は漢中王から身を起こして天下を取った。同じ地での同じ称号には、漢の正統を継ぐという意味が込められていた。劉備は関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍とした。関羽は、老兵の黄忠と同列に並べられたことに怒ったが、使者の費詩に諭されて任命を受けた。漢中の守りには、張飛ではなく、まだ名の高くなかった魏延が抜擢された。
この年、劉備の勢いは頂点に達した。荊州を守る関羽は北へ兵を出して樊城を囲み、秋の長雨で漢水があふれると、魏の援軍を率いた于禁を降した。関羽の武威は中原を震わせ、曹操は都を許から移すことまで考えたと伝えられる。だが、その背後を孫権の将呂蒙が突いた。関羽は荊州を失い、この年の暮れに捕らえられて斬られた(関羽の死と荊州の喪失)。定軍山の勝利から一年も経たないうちに、劉備は荊州と、最も古い同志を失ったのである。
漢中はその後、蜀漢の北の守りとなり、のちに諸葛亮が北伐に出る拠点になった。234年、五丈原で没した諸葛亮は、遺言で定軍山に葬るよう命じた(五丈原と諸葛亮の死)。山をそのまま墳墓とし、墓穴は棺が入るだけの広さにとどめ、亡骸には普段の服を着せ、副葬品は要らない、という簡素な葬りだった。いまも陝西省勉県の定軍山のふもとには武侯墓がある。夏侯淵が斬られた山は、蜀漢の興りと、その宰相の眠りの両方を見届けた場所になった。