高平陵の変

概要
皇帝と実力者が墓参りに出た隙に、病を装っていた老将が都の門を閉じた。曹爽の一族が処刑され、魏の実権が司馬氏に移る。16年後、その孫が皇帝になる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
司馬懿AD179年–AD251年 · クーデター本文
魏の2代皇帝曹叡(明帝)は、239年の正月、35歳ほどの若さで死んだ。後を継いだのは、養子の曹芳で、まだ8歳だった。曹叡は死の床で、皇族の曹爽と、重臣の司馬懿の二人に、幼い皇帝の補佐を託した。司馬懿は、蜀の諸葛亮の北伐を防ぎ(五丈原と諸葛亮の死)、遼東の公孫淵を滅ぼした、魏で最も実績のある老将だった。
はじめ二人は並んで政治を見た。だが曹爽は、何晏、鄧颺、李勝、丁謐ら、才気のある若い名士たちを側近に集め、しだいに権力を独占していった。司馬懿は太傅という最高の名誉職に祭り上げられ、実務から遠ざけられた。曹爽の一派は、制度の改革を進める一方で、私邸に宮中の財宝を持ち込むなど、驕りが目立つようになった。244年、曹爽は手柄を立てるために蜀へ大軍を出したが、険しい山道で行き詰まり、多くの兵と物資を失って引き揚げた。

247年、司馬懿は病と称して朝廷に出なくなった。翌248年の冬、曹爽の側近の李勝が、荊州の長官として赴任する前に、別れの挨拶を名目に司馬懿の様子を探りに来た。正史の注に引かれた記録によれば、司馬懿は二人の侍女に支えられて現れ、衣を取ろうとして落とし、口を指して喉が渇いたと言った。侍女が粥を差し出すと、司馬懿はそれをすすったが、粥は口からこぼれて胸を濡らした。李勝が「荊州へ赴任します」と言うと、司馬懿は「并州(北の辺境)へ行かれるのか」と聞き違えてみせた。李勝は曹爽に、司馬公はもはや死体に息が残っているだけで、心配するに及ばない、と報告した。
249年の正月、皇帝曹芳は、先帝曹叡の墓である高平陵へ参拝に出た。曹爽とその兄弟たちも、皆それに従って洛陽の都を出た。都の兵を握る者が、そろって城外へ出たのである。
その日、司馬懿は動いた。皇太后の命令という形をとって洛陽の城門を閉じさせ、武器庫を押さえ、軍を率いて洛水の浮き橋に陣を敷いて、皇帝と曹爽の帰り道をふさいだ。長男の司馬師は、ひそかに3000人の決死の兵を養っており、この日一斉に集めたと『晋書』は記す。司馬懿は皇帝に上奏文を送り、曹爽が先帝の遺命に背いたことを並べ立てて、その兵権を解くよう求めた。
曹爽の陣営には、都から逃げ出してきた大司農の桓範がいた。桓範は、皇帝を連れて南の許昌へ移り、天子の名で各地の兵を呼び集めれば戦える、と説いた。だが曹爽は一晩迷った末に、司馬懿の求めに応じた。司馬懿は、兵権を返せば地位と財産は保証すると伝え、洛水を指して誓ったとされる。曹爽は剣を投げ出し、自分は官を失っても、富豪の老人として暮らせればよい、という意味の言葉を言ったと伝えられる。桓範は、曹真ほどの立派な人から、お前たち兄弟のような子牛が生まれたとは、と嘆いた。
数日後、曹爽と兄弟たち、何晏ら側近は、謀反を企てたとして捕らえられ、三族ともども処刑された。助命を約束した手紙を曹爽に送っていた蒋済は、約束が破られたことを恥じて病に伏し、その年のうちに死んだ。
これで魏の実権は司馬氏に移った。司馬懿は251年、反乱を企てた将軍王淩を討ち、その年に死んだ。後を継いだ長男の司馬師は254年に皇帝曹芳を廃し、司馬師の死後、弟の司馬昭が実権を握った。260年には、司馬氏の専横に怒った皇帝曹髦が自ら兵を率いて司馬昭を討とうとし、逆に殺された。263年には蜀を滅ぼし(蜀の滅亡)、司馬昭の子の司馬炎は265年の暮れ、魏の最後の皇帝から位を譲られて晋を建てた(司馬炎の晋建国)。高平陵の変から16年余りが過ぎていた。曹丕が漢から位を譲られた形(曹丕の即位(漢の滅亡))を、そのまま魏が受ける側に回ったことになる。
司馬氏が帝位を得た経緯は、晋の人々にとっても後ろめたいものだった。東晋の時代、明帝が重臣の王導に、祖先がどのようにして天下を得たのかを尋ねた。王導が司馬懿の時代からの経緯を語ると、明帝は顔を覆って寝台に伏し、そのようなことなら、晋の命運がどうして長く続こうか、と言ったと『世説新語』は伝えている。病を装い、機を待ち、誓いを破って政敵を滅ぼした司馬懿は、三国志の物語の中で、最後に勝った者として、そして最も油断のならない人物として記憶されている(三国の鼎立)。