できごと

華佗の死

Death of Hua Tuo
AD208年頃
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国マガダスーレーン家の王国サータヴァーハナ朝カリンガ高句麗南匈奴アイヌチョーラ朝Yuebanチャンパ新羅シンハラAD208年頃許昌
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD208年頃の版図を描いています(16勢力)。

概要

麻沸散で腹を開いた医者が、曹操の頭痛を診て、「家に帰る」と言って戻らず、獄で殺された。獄吏に医書を渡そうとして、吏が恐れて受け取らず、焼いた。曹操は息子の曹沖が病で死んだとき「華佗を殺したことを悔いる」と言った。

場所

許昌
34.03°N 113.85°E · 中国・河南省

関わった人(2)

華佗?–AD208年頃 · 医者曹操155年–220年3月15日 · 殺した

本文

華佗は、後漢の末の医者で、字を元化という。沛国の譙の人で、のちに天下の実権を握る曹操と同郷だった。陳寿『三国志』の「方技伝」と、のちの『後漢書』が、彼について伝える主な史料である。それによると、華佗は百歳近いと言われながら、若々しい顔つきをしていた。薬の処方は数種類だけで、分量は秤にかけず手で量り、鍼も一、二か所に打つだけで病を治したという。

最も名高いのは、手術の記録である。病が体の奥に固まり、鍼も薬も届かないとき、華佗は「麻沸散」という薬を酒で飲ませた。患者が酔ったように感覚を失うと、腹や背を切り開いて病のかたまりを取り除き、腸の病なら切って洗い、縫い合わせて膏薬を塗った。四、五日で痛みが引き、一月ほどで元通りになった、と史書は書く。いまから1800年ほど前の、全身を眠らせて行う手術の記録である。ただ、麻沸散が何でできていたのかは分かっていない。チョウセンアサガオの花だとも、大麻だとも推測されるが、処方は伝わらない。

華佗
華佗Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

華佗は、病気にならない体を作ることも説いた。虎、鹿、熊、猿、鳥の動きをまねる体操「五禽戯」を考え、体は動かすべきだが、くたくたになるまでやってはいけない、動けば食べたものがよくこなれ、血の巡りがよくなって病が起こらない、戸の軸がいつも回っていれば朽ちないのと同じだ、と弟子に語ったという。これを続けた弟子の呉普は、90歳を過ぎても耳も目もよく、歯もそろっていたとされる。

曹操は、持病の激しい頭痛に苦しんでいた。華佗が鍼を打つと痛みは治まった。曹操は華佗をそばに置き、専属の医者として仕えさせた。だが華佗はこれを喜ばなかった。陳寿は、華佗はもともと士人、つまり学問をして官に仕える身分を志していたのに、医術で生計を立てることになり、いつもそれを悔やんでいた、と書いている。当時、医者は「方技」と呼ばれる技術の職で、学者や官僚より一段低く見られていた。

歌川国芳画『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』
歌川国芳画『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

華佗は曹操に、この病はすぐには治らない、長く治療を続ければ命を延ばすことはできる、と告げた。そしてしばらくして、家から薬の処方を取ってくると言って故郷へ帰り、妻が病気だと言って戻らなかった。曹操は何度も手紙を送り、役所にも命じて呼び戻そうとしたが、華佗は応じない。曹操は人を遣って調べさせた。妻が本当に病なら小豆40斛を与え、休みを延ばしてやれ。偽りなら捕らえて連れて来い。偽りだった。華佗は捕らえられ、獄に送られた。

参謀の荀彧は、華佗の医術は本物で、人の命にかかわるものです、許してやってください、と頼んだ。曹操は、心配するな、天下にこんな鼠のような者がいなくなることはない、と取り合わなかった。華佗は獄で取り調べを受けて死んだ。208年ごろのことと考えられている。死ぬ前、華佗は一巻の書を獄吏に差し出し、これがあれば人を活かせる、と言った。だが獄吏は罪に問われるのを恐れて受け取らず、華佗はそれを火に投じて焼いたという。

曹操の肖像
曹操Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

その後、曹操が最も愛した幼い息子の曹沖が、13歳で病にかかって死んだ。曹操は、華佗を殺したことを悔やむ、この子をむざむざ死なせてしまった、と嘆いたと伝えられる。曹操自身の頭痛も、生涯治らなかった。同じ208年の冬、曹操は赤壁の戦いに敗れている。

後世の小説『三国志演義』では、華佗が毒矢を受けた関羽の腕を切り開き、骨を削って毒を取ったという名場面が描かれる。しかし、正史の関羽伝にこの治療の話はあるものの、医者の名は記されておらず、華佗が死んだとされる年からも10年あまり後のことになる(関羽の死と荊州の喪失)。華佗の場面は物語の創作と考えられる。

華佗の話には、謎も多い。歴史家の陳寅恪は、「華佗」という名はインドの言葉で薬を意味する語の音を写したもので、その逸話にはインドの仏典に出てくる名医の話と似た筋があると論じた。華佗がまったくの架空の人物とは言えないが、伝説がどこまで混ざっているかは分からない。同じ時代には、病の理論と処方をまとめた張仲景もいた。

それでも華佗の名は、名医の代名詞として残った。中国ではいまも腕のいい医者を「華佗の生まれ変わり」とほめ、病院や薬の名にも使われる。江戸時代の日本で、1804年に全身麻酔による乳がんの手術を行った華岡青洲は、自分の麻酔薬を麻沸散とも呼んだ。焼かれた一巻の医書に何が書かれていたのか。それは、2000年近く惜しまれ続けている。

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