孫権
概要
江南を固め、赤壁で曹操を退けた。三国のうち最も長く続く呉を建てる。
所属
呉関わったできごと(3)
関羽の死と荊州の喪失AD219年 · 背後を突いた三国の鼎立AD220年 · 呉孫権の帝位AD229年 · 皇帝本文
孫権は182年、後漢の末に、江東(長江下流の南岸)で名を上げた武将孫堅の次男として生まれた。字は仲謀。父の孫堅は董卓との戦いで名を上げたが、孫権が10歳ほどのとき、荊州の劉表との戦いで討ち死にした。兄の孫策が父の旧臣を率いて江東の諸郡を次々に平らげ、一族の地盤を築いた。

200年、その孫策が狩りの最中に、かつて殺した地方官の食客に襲われ、傷がもとで26歳で死んだ。跡を継いだ孫権は18歳だった。江東はまだ征服されたばかりで、豪族や山地の異民族は従わず、兄のもとに集まった人々も、若い当主を見限るかどうか様子をうかがっていた。孫権は兄の遺命に従い、政務を張昭に、軍事を周瑜に任せて足場を固めた。兄が死の床で、天下を争うことでは自分が上だが、賢者を用いて江東を守ることではお前が上だ、と言い残したと伝えられる。
孫権の才は、人を見抜いて任せることにあった。周瑜の後には魯粛、その後には呂蒙、さらに陸遜と、世代ごとにその時に合った人材を前線の総司令に据えている。呂蒙がもとは学問の無い武人だったのを、孫権が書物を読めと勧め、後に魯粛が会って見違えるほどの見識に驚いた、という話がある。呉下の阿蒙にあらず、という言葉のもとになった逸話である。

208年、華北を平定した曹操が大軍で南下し、荊州を降して長江を下ろうとした。曹操は孫権に、80万の水軍で呉で狩りをしようと思う、と書き送ったと伝えられる。張昭をはじめ重臣の多くは降伏を勧めたが、魯粛と周瑜は戦うべきだと説いた。孫権は主戦に決め、刀を抜いて机の角を斬り落とし、これ以上降伏を口にする者はこの机と同じになる、と言い渡したという。この場面は、正史『三国志』の注に引かれた史料に見える。周瑜が率いる呉の水軍は、劉備の軍と結んで赤壁で曹操を退けた(赤壁の戦い)。曹操は孫権の陣構えを見て、子を持つなら孫仲謀のようであるべきだ、と嘆じたとも伝えられる。
赤壁の後、荊州をめぐって劉備との関係は揺れ続けた。劉備に荊州の一部を貸したが、劉備が益州を得ても返さない。219年、孫権は曹操と手を結び、呂蒙に命じて荊州を守る関羽の背後を突かせ、関羽を捕らえて斬った(関羽の死と荊州の喪失)。報復に攻め込んだ劉備を、222年に陸遜が夷陵で大破している(夷陵の戦い)。その間、孫権は魏に臣下の礼をとって呉王に封じられ、西の劉備と戦う間の北の安全を確保した。同盟と離反をためらいなく使い分けるところに、孫権の外交の特徴があった。

ただ、戦場の指揮官としては得意ではなかった。215年、自ら10万の兵を率いて合肥を攻めたが、魏の張遼のわずかな兵に急襲され、撤退の途中で危うく捕らえられかけている。その後も合肥は何度攻めても落ちなかった。
229年、孫権は皇帝を名のり、都を建業(いまの南京)に置いた(孫権の帝位)。三国の中では最後の即位になる。蜀は国力を考えて、帝号を認めたうえで同盟を保つ道を選んだ。孫権は海に目を向けた。230年、将軍の衛温と諸葛直に1万の兵をつけて、海の向こうの夷洲と亶洲を探させた。夷洲から数千人を連れ帰ったが、兵の多くを病で失い、二人の将軍は罪に問われて処刑された。夷洲を台湾とする説が有力だが、確かではない。また、遼東で魏から半ば自立していた公孫淵とも海路で使者を交わし、魏を挟み撃ちにしようとした。公孫淵は孫権の使者を斬って首を魏に送り、孫権は激怒したが、海を越えて討つことはできなかった。

長い治世の終わりは暗かった。皇太子に立てた長男が早く死ぬと、三男の孫和を太子とし、同時に四男の孫覇も厚く遇したため、家臣が二派に分かれて争った。丞相となっていた陸遜は太子を守るよう繰り返し諫めたが、孫権は責める使者を何度も送り、陸遜は憤りのうちに死んだ。250年、孫権は孫和を廃し、孫覇に死を命じ、両派の多くの臣を処罰して、幼い末子の孫亮を太子とした。二宮の変と呼ばれる。252年、孫権は死んだ。70歳だった。
呉は、孫亮の後も権臣の争いと皇帝の廃立が続き、最後の皇帝孫皓の暴政を経て、280年に晋に降った(呉の滅亡(晋の統一))。それでも呉は、三国の中で最も長く続いた国になった。孫権のもとで江南の開発が進み、北から逃れてきた人々が移り住んだことは、その後の東晋や南朝の時代につながる。長江の南が、中国の歴史の中で北と並ぶ重みを持ち始めたのは、この頃からである。