劉備
概要
漢の血筋を名乗り、流浪の末に蜀を得た。三国の一角を担う。
所属
蜀関わったできごと(5)
呂布の死AD199年2月 · 一言三顧の礼AD207年 · 訪ねた劉備の入蜀AD214年 · 入った三国の鼎立AD220年 · 蜀夷陵の戦いAD222年 · 敗れた本文
劉備は161年、幽州涿郡涿県(いまの河北省)に生まれた。字は玄徳。前漢の景帝の子、中山靖王劉勝の子孫と称したが、劉勝には子が百人以上いたとされ、そこから三百年あまりたった劉備の家がその流れを引くかどうかは、確かめようがない。父を早くに亡くし、母とともに筵を織り、草鞋を売って暮らしたと、陳寿の『三国志』は書いている(陳寿『三国志』)。家の東南の角に大きな桑の木があり、少年の劉備は、いつか羽根飾りのついた天子の車に乗ってやる、と言って叔父にたしなめられたという。

一族の援助で、15歳のとき学者の盧植の門に入った。同門に、のちに北方の群雄となる公孫瓚がいる。ただ劉備は書物を好まず、犬や馬、音楽、着飾ることを好んだ。口数は少なく、喜怒を顔に出さず、人の下手に出るのがうまかった。身の丈は7尺5寸、手を垂らすと膝の下まで届き、振り返ると自分の耳が見えたという。土地の若者たちが争って彼のもとに集まり、豪商が資金を出した。
184年、黄巾の乱が起きると、劉備は手勢を率いて討伐に加わり、その功で小さな県の役人になった。この頃から、関羽と張飛が彼に従っている。三人は寝るときも同じ寝台を使い、兄弟のような恩愛で結ばれていたと正史にある。桃園で義兄弟の誓いを立てる有名な場面は、後の小説の創作である。視察に来た上級の役人が面会を断ると、劉備は押し入って役人を縛り上げ、杖で200回打ちすえて、官職を捨てて逃げた。小説ではこの役は張飛に移されている。

それからの劉備の半生は、流浪の連続だった。公孫瓚に身を寄せ、徐州の陶謙を助けて、その死に際して徐州を譲られた。しかし身を寄せてきた呂布に徐州を奪われ、曹操のもとへ逃げ込んだ。曹操は劉備を厚く遇したが、劉備は都で曹操暗殺の企てに加わり、徐州へ出たところで曹操に背いた。曹操に攻められて妻子と関羽を置き去りにして河北の袁紹へ逃げ、袁紹が官渡の戦いで敗れると、荊州の劉表を頼った。劉表のもとで数年を過ごしたある日、厠に立って自分の腿に肉がついたのに気づき、長く馬に乗っていないことを嘆いて涙を流したという。髀肉の嘆である。40代の半ばを過ぎても、自分の領地は無かった。
それでも劉備のもとから人は離れなかった。曹操はかつて、天下の英雄は君と私だけだ、と劉備に言ったと伝えられる。207年ごろ、劉備は荊州の隆中に隠れ住む若い諸葛亮を三度訪ねて、ようやく会うことができた。三顧の礼である。諸葛亮は、曹操とは正面から争えず、孫権とは結ぶべきで、荊州と益州を取って足場とし、天下の変を待て、と説いた。劉備は、自分に孔明がいるのは魚に水があるようなものだ、と言って重んじた。

208年、曹操が荊州に攻め込むと、劉備は南へ逃げた。劉備を慕って十数万の民がついてきたため、一日に十里ほどしか進めなかった。民を捨てて急げと勧められても、大事をなすには人を本とする、今人が自分に頼ってきたのにどうして捨てられようか、と答えたという。長坂で曹操の騎兵に追いつかれて妻子を捨てて逃げたが、孫権と同盟を結び、赤壁で曹操を退けた(赤壁の戦い)。その後、荊州の南部を手に入れ、214年には益州の劉璋を降して成都に入った(劉備の入蜀)。219年には漢中で曹操の軍を破り、漢中王を名のった。50代の終わりにして、ようやく天下の一角を占めたことになる。
頂点は長く続かなかった。同じ219年、荊州を守っていた関羽が、孫権の軍に背後を突かれて殺された(関羽の死と荊州の喪失)。翌年、曹丕が漢の帝位を奪うと、劉備は221年、漢の血筋を継ぐ者として成都で皇帝に即位した。国号は漢だが、後世は蜀、あるいは蜀漢と呼ぶ。即位するとすぐ、多くの臣の反対を押し切って呉への出兵を決めた。出陣の直前に張飛が部下に殺され、222年、夷陵で陸遜の火攻めにあって大敗した(夷陵の戦い)。劉備は白帝城に退き、そこから成都に戻ることはなかった。

223年、劉備は病が重くなると諸葛亮を呼び寄せ、君の才は曹丕の十倍ある、必ず国を安んじて大事を成し遂げるだろう、もし我が子が補佐するに足るなら補佐してほしい、もし才が無ければ君が自ら取れ、と言い残した。諸葛亮は泣いて、死ぬまで忠節を尽くすと誓った。子の劉禅には、悪事は小さいからといって行ってはならない、善事は小さいからといって行わずにいてはならない、と書き残している。63歳だった。
陳寿は劉備を、度量が広く、人を見抜いてよく士を遇した、漢の高祖の風格がある、と評した。ただし機転と策略では曹操に及ばず、そのため国土も狭かった、とも書いている。後の時代、漢の正統を継ぐ者として劉備を立てる見方が強まり、明代の小説『三国志演義』では、民を愛し義を重んじる仁徳の君主として描かれた(『三国志演義』)。曹操が悪役、劉備が善玉という図式は、正史の劉備よりもはるかに単純だが、東アジアで長く親しまれる劉備の姿は、この小説が作ったものである。