できごと

九品官人法

Nine-rank system
AD220年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢魏サカ族の王国マガダスーレーン家の王国サータヴァーハナ朝カリンガ高句麗南匈奴アイヌチョーラ朝Yuebanチャンパ新羅シンハラAD220年洛陽
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD220年の版図を描いています(17勢力)。

概要

地方の人物を九つの等級に評して官に推す仕組みを魏が定めた。やがて家柄で等級が決まるようになり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われる。貴族の時代の入口になる。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

曹丕AD187年–AD226年 · 定めた

本文

漢の時代、役人の登用は「郷挙里選」によった。地方の長官が、土地で親孝行や清廉の評判の高い人物を選び、中央に推薦する。評判は、その人を知る土地の人びとの声で決まった。後漢の末になると、この仕組みは名士たちの評判の付け合いになり、さらに黄巾の乱とその後の戦乱で揺らいだ。人びとは故郷を捨てて流れ、誰がどんな人物なのか、土地の声で確かめることができなくなった。

戦乱の中で勢力を築いた曹操は、家柄や品行よりも才能を重んじた。210年に出した布告では、たとえ素行に難があっても、才さえあれば推挙せよと命じている。乱世を勝ち抜くには、それが必要だった。

七品の文官を描いた清朝の肖像画。胸の補子(マンダリンダック)は夫婦の貞節と忠誠を象徴する
七品の文官を描いた清朝の肖像画。胸の補子(マンダリンダック)は夫婦の貞節と忠誠を象徴するWikimedia Commons Weng Pu · Public domain

220年、曹操が死に(曹操の死)、子の曹丕が魏王の位を継いだ。その年のうちに漢の献帝から帝位を譲り受けて、魏を建てる(曹丕の即位(漢の滅亡))。新しい王朝には、漢の朝廷に仕えてきた名門の士大夫たちを取り込むことが欠かせなかった。この年、尚書の陳羣の進言によって定められたのが、九品官人法である。

仕組みはこうである。郡ごとに「中正」という役を置く。中正には、その郡の出身で、中央の官についている人物が選ばれる。中正は郡の人物を調べ、その人柄や才能、家の格を評価して、一品から九品までの等級をつける。これを「郷品」という。中央の人事は、この郷品に応じて、その人物を最初にどの位の官につけるかを決める。郷品がおよそ二品なら、最初の官は六品から、というように、郷品より四つほど低い官から出発し、やがて郷品の高さまで昇っていく仕組みだったとされる。

曹丕の肖像(唐代の図)
曹丕Wikimedia Commons Yan Li-pen · Public domain

はじめの狙いは、戦乱で崩れた人物の評価を立て直すことにあった。故郷を離れて都にいる人物でも、同じ郡の出身者なら故郷の人物を知っている。その目で評価させる。理屈は通っていた。のちには州ごとにも大中正が置かれ、評価の権限はさらに上に集まった。

だが中正に選ばれるのは、もともと中央で高い官についている有力な家の人びとである。彼らは、自分たちと同じような家の子弟に高い品を与えた。等級を決める基準は、しだいに本人の才能や行いから、家柄へと移っていった。高い郷品をもらった家の子は高い官から出発し、その子もまた中正になって、次の世代に高い品を与える。家の格が、世代を越えて固定されていった。

魏に代わった晋の時代、劉毅という官僚が、この仕組みの弊害を皇帝に訴える上奏文を書いた。その中の一句が、のちのちまで引かれることになる。「上品に寒門無く、下品に勢族無し」。上の等級には貧しい家の者が一人もおらず、下の等級には有力な家の者が一人もいない。劉毅は、中正が公平でなく、評価が家柄と縁故で決まっていると批判した。だが改められることはなかった。

こうして、魏晋南北朝の時代を通じて、門閥貴族と呼ばれる家々が政治と社会の上に立った(晋による統一、東晋の成立)。南朝では、王氏や謝氏のような名門が何代にもわたって高官を出し、家柄の低い者とは結婚もせず、同じ席にも座らなかった。皇帝さえ、名門の格を変えることはできなかった。文学や書や清談の文化は、この貴族たちのもとで華やいだ。

一方で、貴族たちは実務から離れていった。高い家に生まれれば、働かなくても高い官に就ける。6世紀の半ば、南朝の梁で起きた侯景の乱では、馬にも乗れない貴族たちがなすすべもなく殺され、南の貴族社会は大きな打撃を受けた。

九品官人法は、隋の文帝によって廃された。代わりに、試験によって役人を選ぶ道が開かれ、やがて科挙として整えられていく(科挙の始まり、隋の中国再統一)。魏の初めから数えて、およそ360年のちのことである。ただし、科挙が始まってもすぐに貴族の力が消えたわけではなく、唐の時代にも名門の家は大きな力を持ち続けた。家柄ではなく試験の成績で人が選ばれる社会が本当に形になるのは、宋の時代になってからである。

日本では、宮崎市定が1956年に『九品官人法の研究』を著し、郷品と官品の関係を解き明かして、この時代の貴族制を考える土台を作った。

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