人物

曹丕

Cao Pi
AD187年 – AD226年(享年39・推定)
魏重要度 3

概要

曹操の子。漢の皇帝から禅譲を受けて魏を建て、九品官人法を定めた。文学論『典論』を書き、弟の曹植を七歩の詩で追い詰めた話が伝わる。

所属

魏

関わったできごと(3)

曹丕の即位(漢の滅亡)AD220年12月11日 · 皇帝九品官人法AD220年 · 定めた七歩の詩AD221年(伝承) · 兄

本文

187年、曹操と側室の卞氏の間に、その長男として生まれた。父の曹操はまだ後漢の一武将にすぎず、天下は黄巾の乱の後の混乱へ向かいつつあった。曹丕は戦乱の陣中で育った。自ら書いた『典論』の自叙によれば、5歳で弓を、8歳で馬上から矢を射ることを覚え、10歳のとき、父が宛城で敵に背かれて大敗した夜、馬に乗って逃げ延びた。このとき、父の正妻が育てた長兄の曹昂が戦死している。その結果、曹丕が兄弟の中で最年長の跡継ぎ候補となった。

曹丕の肖像(唐代の図)
曹丕の肖像(唐代の図)Wikimedia Commons Yan Li-pen · Public domain

武芸を好み、剣術の腕に自信があった。『典論』には、剣の名手とされた将軍と、酒の席でサトウキビを刀の代わりにして手合わせをし、三度打ち込んで勝った、という自慢話が書かれている。同時に、幼いころから詩や書物に親しみ、のちに建安文学と呼ばれる文学の輪の中心の一人になった。

父の後継をめぐっては、同じ母から生まれた弟の曹植と争うことになった。曹植は詩の才に恵まれ、機転が利き、父に深く愛された。曹操は一時、曹植を跡継ぎにしようと考えたとされる。家臣たちも二派に分かれた。曹丕は感情を抑え、父の前でふるまいを慎んだ。曹操の出陣を見送る場で、曹植が父の功を讃える美しい文章を読み上げたのに対し、曹丕は何も言わずに涙を流して別れを惜しみ、居並ぶ者たちの心を動かした、という話が伝わる。一方の曹植は、酒に酔って宮殿の禁じられた門を勝手に通るなどの失態を重ねた。217年、曹丕は魏王の太子に立てられた。

曹丕(清代『三国志演義』より)
曹丕(清代『三国志演義』より)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

220年1月、曹操が死んだ(曹操の死)。曹丕は魏王の位と丞相の職を継ぐと、その年のうちに、後漢最後の皇帝である献帝から位を譲られた(曹丕の即位(漢の滅亡))。漢の皇帝は、徳を失った天子が徳のある者に自ら位を譲るという「禅譲」の形で退き、曹丕はそれを三度辞退して、ようやく受けた。古代の聖王の尭や舜にならった形式を、一つ一つ踏んでみせたのである。こうして400年続いた漢は終わり、魏の初代皇帝、文帝が生まれた。退位した献帝は殺されず、山陽公として天寿を全うしている。ここで作られた禅譲の手順は、その後の中国で王朝が代わるたびに繰り返される型になった。翌年には蜀で劉備が、のちに呉で孫権が皇帝を名乗り、三国が並び立つ時代になる(三国の鼎立)。

皇帝となった曹丕は、新しい国の仕組みを整えた。重臣の陳群の献策を受けて、九品官人法を定めた。各地に中正という役人を置き、人物を九つの等級に分けて評価し、その等級に応じて官職に就ける制度である。乱世で人の評判がばらばらになった中で、人材を集める仕組みとして作られたが、やがて有力な家の子弟が高い等級を独占する道具になり、のちの貴族の時代の土台になった。また、後漢を滅ぼした原因の一つだった宦官と外戚の政治への関与を、詔で厳しく禁じた。

外では呉の孫権と争い、自ら大軍を率いて長江まで三度出陣した。だが渡ることはできなかった。長江の岸に立ち、ああ、天はこの川で南と北を分けたのだ、と嘆いたと伝えられる。

曹丕はまた、中国で最初の本格的な文学論を書いた人でもある。『典論』の「論文」の篇で、彼は、文章は国を治める大事業であり、朽ちることのない盛んな営みである、と書いた。人の命には限りがあり、栄華も一身で終わるが、文章は後世まで残る、と。文学が政治や道徳の付属物ではなく、それ自体として価値を持つという考え方を、これほどはっきり書いた文章はそれまで無かったとされる。同じ篇で、建安の七人の文人の長所と短所を一人ずつ論じ、文人は昔から互いを軽んじるものだ、とも書いている。詩人としては「燕歌行」が、一句が七字でそろった詩の、完全な形で残る最も早い作品の一つとされる。

弟の曹植との関係は、即位後も冷たかった。曹植の側近は殺され、曹植自身も都から遠い領地を転々とさせられた。よく知られた「七歩の詩」の話はこのころのこととされる。曹丕は曹植に、七歩歩くうちに詩を作れ、できなければ罰する、と命じた。曹植はすぐに詠んだ。豆を煮るのに豆の殻を燃やす、豆は釜の中で泣く、もとは同じ根から生まれたのに、なぜそれほど急いで煮るのか、と。曹丕は深く恥じ入った、という。ただしこの話は、南朝の宋の時代に編まれた逸話集『世説新語』に見えるもので、正史の陳寿『三国志』には無い。後世の創作とみるのが普通である。

226年、曹丕は病に倒れ、40歳で死んだ。在位は7年に満たなかった。死の前に、子の曹叡を跡継ぎとし、曹真、陳群、司馬懿らに後を託した。その一人、司馬懿の孫が、のちに同じ禅譲の形で魏から位を奪い、晋を建てることになる。生前に書いた遺言では、墓に宝物を入れるな、盛り土も木も植えるな、と簡素な葬儀を命じている。古来、豪華な副葬品を持つ墓はみな暴かれてきた、というのがその理由だった。

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