できごと

合肥の戦い

Battle of Xiaoyao Ford
AD215年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国マガダサータヴァーハナ朝カリンガ高句麗南匈奴アイヌチョーラ朝Yuebanチャンパ新羅シンハラAD215年合肥
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD215年の版図を描いています(15勢力)。

概要

孫権が10万で合肥を攻め、張遼が800人で夜明けに突撃して陣を割った。孫権は逃げ、橋が落ちていて馬で飛んだ。江南で「張遼が来る」と言えば泣く子も黙った、と伝わる。

場所

合肥
31.86°N 117.28°E · 中国・安徽省

本文

208年の赤壁の戦いで曹操の南下が止められてから、長江をはさんだ北の曹操と南の孫権の争いは、長江と淮河の間の土地をめぐるものになった。その最前線にあったのが合肥である。合肥は淮河の南、巣湖の北にあり、南の孫権から見れば、北へ攻め上るための入口だった。曹操から見れば、江南への侵攻の足場であり、守りの要だった。孫権はそれまでにも合肥を攻めたことがあったが、落とせずにいた。

215年、情勢が動いた。この年、孫権は西の劉備と荊州の領有をめぐって対立し、一時は戦いになりかけたが、荊州の東半分を孫権が得る形で和議を結んだ。劉備はその前年に益州を取っていた(劉備の入蜀)。一方、曹操はこの年、大軍を率いて西の漢中へ遠征し、張魯を攻めていた。曹操の主力は遠く西にある。孫権にとって、合肥を落とす好機だった。孫権は10万と号する大軍を率いて合肥を囲んだ。

安徽省中の合肥市の位置
安徽省中の合肥市の位置Wikimedia Commons Croquant · CC BY 3.0

合肥を守っていたのは、張遼、楽進、李典の三人の将と、7000人あまりの兵だった。三人は互いに仲が良くなかったとされる。曹操は遠征に出る前、合肥の監督役に、封をした命令書を預けていた。表には「敵が来たら開け」とだけ書かれていた。孫権の軍が迫ると、将たちは命令書を開いた。中には、張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ、監督役は戦ってはならない、と書かれていた。

将たちが、これほどの兵力の差で打って出るのかと迷う中、張遼は、曹操が遠征に出ている今、援軍を待っていては敵に囲まれて破られる、敵の陣が整わないうちに出鼻をくじき、味方の心を落ち着かせてから守りを固めるべきだ、と説いた。李典もこれに同意し、私怨を捨てて張遼に従った。張遼はその夜、勇敢な兵800人を選び、牛を殺して振る舞った。

合肥の包拯歴史文化園
合肥の包拯歴史文化園Wikimedia Commons 江上清风1961 · CC BY 3.0

夜明け、張遼は鎧をまとい、戟を手にして、真っ先に孫権の陣へ斬り込んだ。数十人を倒し、二人の将を斬り、自分の名を大声で名乗りながら、孫権の旗のすぐ下にまで迫った。不意を突かれた孫権は驚き、高い塚の上に逃れて、長い戟を持った兵に周りを固めさせた。張遼は孫権に降りて来て戦えと叫んだが、孫権は動かなかった。やがて孫権の兵が張遼を幾重にも囲んだ。張遼は囲みを破って抜け出したが、取り残された味方の兵が「将軍は我らを見捨てるのか」と叫ぶのを聞くと、再び囲みの中へ取って返し、彼らを救い出した。戦いは昼まで続き、孫権の軍はすっかり気を呑まれた。張遼は城に戻って守りを固め、城の兵の心は落ち着いた。

孫権は十数日にわたって城を囲んだが、落とせなかった。軍の中には病も広がっていた。孫権はついに兵を引くことにした。ところが、その退き際を張遼は狙っていた。大軍が順に引き揚げ、孫権のまわりにわずかな兵しか残らなくなったとき、張遼は再び城から打って出て、逍遥津という渡し場のあたりで孫権に襲いかかった。孫権の部将の凌統は、手勢を率いて必死に防ぎ、部下をほとんど失いながら孫権を逃がした。甘寧らも奮戦した。

このとき孫権が渡ろうとした橋は、板が外されて途中が切れていた。のちの注釈に引かれた記録によれば、孫権の近くにいた者が、孫権に手綱をゆるめさせて馬に鞭を当て、馬は勢いをつけて橋の切れ目を跳び越えたという。孫権はこうして、危ういところで命拾いをした。捕らえられた呉の兵は、張遼に、あの紫の髭の、背が高く脚の短い、馬に乗るのがうまい将軍は誰かと尋ねられ、それが孫権だと答えた。張遼は、それと知っていれば追いかけて捕らえたものを、と悔やんだと伝えられる。

合肥の戦いは、正史の陳寿『三国志』の張遼の伝に詳しく記されている。曹操は張遼の働きを大いにたたえ、位を上げた。その後も孫権は何度か合肥を攻めたが、ついに落とすことはできず、長江の北に勢力を広げることはかなわなかった。

江南では、張遼の名が恐れの的になったと伝えられる。泣いている子どもに「張遼が来るぞ」と言うと泣きやんだ、という話はよく知られているが、これは後の時代の書物に見える話で、そのまま事実とは言えない。それでも、800人で10万の陣を割ったというこの戦いは、三国志の中でもとりわけ痛快な場面として、後の物語や芝居で繰り返し語られてきた。

同じ時代のできごと

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