曹操
概要
後漢末の実力者。赤壁で敗れて中国の統一は遠のき、三国の時代に入る。
関わったできごと(10)
曹操の屯田AD196年 · 命じた呂布の死AD199年2月 · 命じた官渡の戦いAD200年 · 曹操側 · 総指揮華佗の死AD208年頃 · 殺した建安文学AD210年頃 · 三曹赤壁の戦いAD208年 · 曹操側 · 総指揮銅雀台AD210年 · 建てた潼関の戦いAD211年 · 勝った曹操の死AD220年3月15日 · 死んだ三国の鼎立AD220年 · 前提を作った本文
曹操、字は孟徳。155年、沛国の譙(いまの安徽省亳州)に生まれた。祖父の曹騰は宮中で皇帝の側近として仕えた宦官で、子がいなかったため養子をとった。それが父の曹嵩である。曹嵩は大金を払って最高位の官職を買ったほどの富豪だったが、宦官の家という出自は、儒教の名門の士大夫からは蔑まれた。

若い曹操は、鷹狩りや遊びにふけり、素行の悪い少年として知られた。一方で兵法書を熱心に読み、のちに『孫子』に注をつけている。人物評で名高い許劭に自分を評してくれと迫り、治世の能臣、乱世の姦雄、と言われて大笑いしたと伝えられる。平和な世なら有能な臣下、乱れた世なら悪知恵にたけた英雄、という意味である。20歳で役人に推挙され、都の洛陽の北部の治安を受け持つと、門に五色に塗った棒を掛け、夜間の外出の禁を破った者は身分を問わず打った。権勢を誇る宦官の叔父までが打ち殺され、彼の名は一気に知られた。
184年、黄巾の乱が起き、曹操は討伐軍の指揮官として頭角を現した。その後、宮廷の混乱に乗じて董卓が都を握ると、曹操は郷里で兵を挙げ、各地の諸侯の反董卓の連合に加わった。だが諸侯は互いを牽制してほとんど戦わず、曹操は自分の力を蓄える道を選んだ。192年には山東の黄巾の残党を降し、その精兵を青州兵として軍の中核に据えた。翌年、父の曹嵩が徐州で殺されると、曹操は報復として徐州に攻め込み、多くの住民を殺した。この虐殺は、彼の生涯の大きな汚点として史書に残っている。

196年、曹操は董卓の死後に各地をさまよっていた献帝を、自分の本拠の許に迎えた。皇帝を手元に置くことで、彼の命令は天子の命令という形をとれるようになった。同じ年、曹操は屯田を始めた(曹操の屯田)。戦乱で持ち主を失った土地に、流民や兵士を入れて耕させ、収穫の一部を軍の食糧として取る仕組みである。各地の群雄が食糧の奪い合いで消耗していく中で、曹操の軍は自前の食糧で戦えた。この年の屯田だけで百万石の収穫があったと記録されている。
最大の敵は、河北を押さえる名門の袁紹だった。200年、両者は黄河のほとりの官渡で対峙した(官渡の戦い)。兵力でははるかに劣り、兵糧も尽きかけていたが、袁紹の陣から寝返ってきた許攸の情報をもとに、曹操は自ら精兵を率いて袁紹軍の兵糧の集積地である烏巣を夜襲して焼き払った。袁紹の軍は崩れ、曹操は数年のうちに河北を手に入れて、中国北部の覇者になった。

208年、曹操は朝廷の最高職である丞相となり、大軍を率いて南へ下った。荊州は戦わずに降り、劉備は逃げ、江東の孫権も降伏寸前だった。だが孫権は家臣の周瑜らの主戦論を容れて劉備と手を組み、長江の赤壁で曹操の軍を迎え撃った(赤壁の戦い)。曹操の軍は北方の兵で水上の戦いに不慣れなうえ、疫病が広がっていた。火攻めにあって大敗し、曹操は北へ退いた。これで中国の統一は遠のき、天下は魏・呉・蜀の三つに分かれていく。
曹操は人材を集めることに執着した。210年に出した布告では、才能さえあれば推挙せよ、と命じ、品行に問題があっても構わない、とまで書いた。当時の官吏の登用は、家柄と、郷里での評判や徳行で決まっていた。曹操はその基準を正面から否定したのである。敵だった者でも、能力があれば迎え入れた。袁紹の書記として曹操の先祖まで罵る檄文を書いた陳琳でさえ、文才を惜しんで許したという話が伝わる。
彼はまた、すぐれた詩人でもあった。酒に対してはまさに歌うべし、人生いくばくぞ、と始まる「短歌行」は、人の世の短さを嘆きながら、賢者を迎えたいと歌う。息子の曹丕と曹植も詩人として名高く、彼らのもとで栄えた文学は、当時の年号をとって建安文学と呼ばれる。
赤壁の後も、曹操は西の馬超を破り、漢中の張魯を降して勢力を広げた。213年に魏公、216年に魏王となったが、皇帝の位には就かなかった。家臣に勧められても、もし天命が私にあるなら、私は周の文王になろう、と答えたという。周の文王は自らは殷に仕えたまま、息子の武王が天下を取った王である。219年には漢中を劉備に奪われ、撤退を決めかねていたときに、鶏の肋骨は捨てるには惜しいが食べる肉は無い、とつぶやいたという話が残る。

220年の正月、曹操は洛陽で病死した。66歳だった。遺言で、天下はまだ定まっていないので葬儀は簡素にし、副葬品に金や宝玉を入れるな、と命じた。同じ年、跡を継いだ曹丕は献帝から位を譲り受けて魏の皇帝となり、400年続いた漢は終わった(曹丕の即位(漢の滅亡))。2009年、河南省安陽市で見つかった墓が曹操の陵墓だと発表されたが、その判定には異論もある。
陳寿は正史『三国志』の中で、曹操を非常の人、時代を超えた英傑と評した(陳寿『三国志』)。ところが後世、とりわけ明代の小説『三国志演義』では、漢を奪った悪役、劉備の敵役として描かれ、京劇でも白く塗った顔で登場する。冷酷で疑い深い面があったのは確かだが、屯田と能力本位の登用で乱世を収拾した政治家として、20世紀以降は見直しが進んでいる。