陸遜
概要
夷陵で劉備を火攻めで破り、呉の丞相になった。晩年、後継争いで孫権に責められて憤死する。
所属
呉関わったできごと(1)
夷陵の戦いAD222年 · 火攻め本文
陸遜、字は伯言。もとの名は陸議という。183年、江南の呉郡呉県の名門、陸氏に生まれた。幼くして父を亡くし、一族の長老で廬江太守だった陸康のもとで育った。194年ごろ、袁術の命を受けた孫策が廬江を攻め、2年にわたる包囲の末に城を落とした。陸康は病死し、一族百人あまりのうち半ば近くが、この戦乱の中で死んだ。陸遜は年長の者として、残された一族を背負うことになった。

その孫策が死に、弟の孫権が江東を継いだ。陸遜は21歳で孫権に仕えた。一族を滅ぼしかけた家の主に仕えたのである。初めは地方の役人として、山地に住んで従わない山越の人々を討ち、降った者を兵に組み込んで力を蓄えた。孫権は陸遜を重んじ、兄孫策の娘を妻として与えた。江東の土着の名族を孫氏の政権に結びつける縁組でもあった。
219年、荊州をめぐって孫権と劉備の対立が深まった。荊州を守るのは劉備の将関羽で、北の魏の城を攻め、名声は天下に響いていた。孫権の将呂蒙は荊州を奪う策を練り、病と称して前線を退いた。代わりに推したのが、まだ名の知られていない陸遜だった。着任した陸遜は関羽に手紙を送り、その武勲をほめちぎり、自分は書生にすぎないとへりくだった。関羽は安心して、背後の守りの兵を北の戦場へ回した。その隙に呂蒙が江陵を奪い、陸遜も長江の上流の諸郡を押さえた。関羽は退路を断たれ、捕らえられて斬られた(関羽の死と荊州の喪失)。

222年、関羽の仇を討とうと、皇帝を名乗った劉備がみずから大軍を率いて長江を下ってきた。孫権は陸遜を大都督に任じ、5万の兵を預けた。諸将の中には孫策の代からの老将や、孫氏の一族がいて、若い陸遜の命令に従おうとしなかった。陸遜は剣に手をかけ、自分は書生だが主君の命を受けている、と言って諸将を抑えたという。
陸遜は戦わなかった。劉備の軍が山道に長く連なり、陣を数十も並べるのを、半年以上ただ見ていた。諸将はしびれを切らしたが、敵は来たばかりで気勢が盛んであり、時がたって疲れるのを待つのだと説いた。夏になり、劉備の兵が暑さと長い滞陣に倦んだころ、陸遜は兵に茅の束を持たせ、劉備の陣に火をかけさせた。木の柵で連なった陣は次々に燃え、劉備の軍は崩れた(夷陵の戦い)。劉備はかろうじて白帝城に逃れ、翌年そこで死んだ。のちの『三国志演義』(『三国志演義』)では、追撃した陸遜が諸葛亮の仕掛けた石の迷路「八陣図」に迷い込む場面があるが、これは小説の創作である。
その後も陸遜は呉の柱だった。228年には石亭で魏の曹休の大軍を破った。229年、孫権が皇帝になると(孫権の帝位)、陸遜は上大将軍として西の要地武昌に置かれ、皇太子の孫登を補佐し、政務と軍事を任された。孫権は蜀への国書を送るとき、陸遜に下書きを見せ、直すべきところは直させたという。厳しい刑罰を戒め、民の負担を軽くするよう、たびたび孫権に意見した。244年、陸遜は丞相となった。
だが晩年の呉は、後継ぎをめぐる争いに揺れていた。皇太子孫登が早く死に、孫和が太子に立てられたが、孫権は弟の魯王孫覇をも同じように寵愛した。臣下は太子派と魯王派に分かれて争った。「二宮の変」である。陸遜は長子を立てるのが道理だとして、太子を守るよう繰り返し上奏した。都へ出て直接申し上げたいとも願ったが、許されなかった。孫権は陸遜の甥たちを流罪にし、何度も使者を送って陸遜を責めた。245年、陸遜は憤りのうちに死んだ。63歳だった。家には余分な財産が何も無かったという。
のちに孫権は、陸遜の子の陸抗に、讒言を信じて父を責めたことを詫び、告発の文書を焼き捨てたと伝えられる。陸抗は呉の最後の名将として晋と国境を守ったが、その死から6年後、呉は滅んだ(呉の滅亡(晋の統一))。陸抗の子の陸機と陸雲は、晋に仕えて文名をとどろかせた詩人である。陳寿は『三国志』(陳寿『三国志』)で、劉備は天下の英雄だったが陸遜に敗れた、陸遜の才は孫権が国の重きを託すに足るものだった、と評している。