呂布の死
概要
「人中に呂布、馬中に赤兎」。養父を二人殺した最強の武人が、下邳で曹操に囲まれ、部下に縛られて降った。「私を副将に」と言い、劉備が「養父二人のことを忘れたか」と言って、絞められた。
場所
34.35°N 118.00°E · 中国・江蘇省
関わった人(3)
呂布?–AD199年2月 · 絞殺曹操155年–220年3月15日 · 命じた劉備AD161年–AD223年 · 一言本文
建安3年(198年)の冬、徐州の下邳城は曹操の軍に囲まれていた。城の主は呂布。後漢の末、武勇でその名を知らぬ者のいない武人である。曹操の軍は城を攻めあぐね、包囲は三か月に及んだ。兵は疲れ、曹操自身も引き揚げを考えたが、荀攸と郭嘉が押しとどめたという。そこで曹操は沂水と泗水の流れを切り、城のまわりに水を引き入れた。下邳は水の中に孤立した。
呂布は北の辺境、五原郡九原(いまの内モンゴル自治区包頭あたり)の生まれである。弓と馬に優れ、并州の刺史丁原に仕えた。189年、洛陽を押さえた董卓に誘われて丁原を斬り、董卓と父子の契りを結んだ。だが董卓は気が荒く、怒って手戟を投げつけたことがあった。呂布は身をかわして詫びたが、恨みは残った。正史『三国志』は、呂布が董卓の侍女とひそかに通じ、発覚を恐れていたとも記す。192年、司徒王允の計に乗って、呂布は董卓を刺し殺した。演義で名高い美女貂蝉は、この侍女の話をもとに後世に作られた人物である。

養父を二人、自らの手で殺したことになる。その後の呂布は流浪を続けた。董卓の部将だった李傕・郭汜に長安を追われ、袁術、張楊、袁紹のもとを渡り歩く。194年には、曹操の留守を狙った陳宮・張邈に迎えられて兗州を奪いかけたが、曹操に押し返された。次に身を寄せたのが徐州の劉備である。劉備が袁術と戦っている隙に、呂布は下邳を奪った。のちに袁術の将紀霊が劉備を攻めたとき、呂布は陣門に戟を立て、遠くからその小枝を射当ててみせて両者を和解させた。正史にも載る話である。
曹操が下邳を囲んだのは、この劉備が曹操のもとへ逃げ込んだあとだった。籠城の中で、参謀の陳宮は、城外に出て曹操の糧道を断つよう説いた。注に引く史料によれば、呂布の妻が「陳宮は信用できない」と止め、呂布は動かなかったという。城内では呂布が禁酒を命じたことから、部将との間がこじれていたとも伝えられる。

建安3年の12月、西暦では199年の2月にあたる。部将の侯成・宋憲・魏続が陳宮を捕らえ、兵を率いて曹操に降った。呂布は側近とともに南門の白門楼に上がったが、囲みは狭まるばかりだった。注に引く史料には、呂布が自分の首を取って曹操に届けよと左右に命じ、誰もそれができなかったとある。呂布は楼を下りて降った。
縛られて曹操の前に引き出された呂布は、「縛りがきつい、少し緩めてくれ」と言った。曹操は「虎を縛るのだ、緩めるわけにはいかない」と答えた。呂布はなおも言う。「明公の憂いは私一人だった。その私が降った以上、天下に恐れるものはない。明公が歩兵を、私が騎兵を率いれば、天下はたやすく定まる」。曹操の顔に迷いが浮かんだ。

そばにいた劉備が進み出た。「明公は、呂布が丁原と董卓にどう仕えたかをご覧にならなかったのですか」。曹操はうなずいた。呂布は劉備を指して言った。「この男こそ、いちばん信用ならない」。『後漢書』は、このとき呂布が劉備を「大耳の男」と罵ったと記す。かつて徐州で劉備を追い出したのは呂布自身であり、その劉備の一言が最期を決めたことになる。呂布は絞め殺され、首は都の許へ送られた。
陳宮も引き出された。曹操がかつての部下に、老母と妻子はどうするのかと問うと、陳宮は、天下を孝で治める者は人の親を絶やさないと聞く、と答え、自ら刑場へ歩いた。曹操は涙を流して見送り、その後、陳宮の母を養い、娘を嫁がせたと伝えられる。高順も斬られた。呂布の部将だった張遼は兵を率いて降り、のちに曹操の名将となって合肥の戦いで孫権を破る。

呂布の死で、曹操は東の脅威を取り除いた。翌年、北の袁紹と正面から戦う官渡の戦いに、背後を気にせず臨めたのはそのためである。劉備はこの後も曹操のもとにいたが、やがて離反して、各地を転々とすることになる。
陳寿は『三国志』の評で、呂布を「虎のような勇はあっても、優れた策略はなく、軽はずみで裏切りを繰り返し、利益だけを見た」と断じた(陳寿『三国志』)。一方で、その武勇は伝説になった。注に引く『曹瞞伝』は、当時「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言われたと伝える。赤兎が呂布の愛馬だったことは正史にも見えるが、のちに関羽の手に渡るのは演義の創作である。演義で張飛が呂布を罵る「三姓の家奴」という言葉も、正史には無い。最強で、最も信用されなかった武人の像は、正史の記事と、それを膨らませた物語の両方から作られてきた。