潼関の戦い
概要
涼州の馬超と韓遂が関中の十部と組んで潼関に拠った。曹操は北から渭水を渡り、離間の計で二人を割った。韓遂に馬上で昔話をし、字を書き換えた手紙を送った。馬超は敗れて涼州へ、やがて劉備に。「錦馬超」の話は演義が大きくした。
場所
34.62°N 110.29°E · 中国・陝西省
関わった人(2)
馬超AD176年–AD222年 · 敗れた曹操155年–220年3月15日 · 勝った本文
潼関は、関中、つまり長安を中心とする渭水の盆地の東の門にあたる。南から流れてきた黄河が東へ大きく折れ、そこに渭水が流れ込む。北は大河、南は山。東から関中へ入る者は、この狭い道を通るしかなかった。後の時代、唐の安史の乱でも、ここが破られたことで長安が落ちている。
211年、北の大半を手にした曹操は、漢中で五斗米道の教団を率いる張魯を討つと言って、配下の鍾繇と夏侯淵に兵を出させた。漢中へ行くには、関中を通らねばならない。関中から涼州にかけては、後漢の末の乱れのなかで自立した軍閥がひしめいていた。馬超、韓遂、侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩。のちに関中の十部と呼ばれる面々である。彼らは、張魯を討つというのは口実で、本当は自分たちを討つつもりだと疑い、兵を挙げた。その数は10万ともいう。

馬超の立場は特に難しかった。父の馬騰は、すでに曹操に従って朝廷の衛尉となり、一族とともに曹操の本拠の鄴に移っていた。人質と同じである。それでも馬超は、父の昔からの盟友であり、時に争った相手でもあった韓遂と手を組み、潼関に拠った。
7月、曹操は自ら兵を率いて西へ向かった。部将たちが、関西の兵は長い矛を使うので、精鋭を先鋒に立てなければ当たれないと言うと、曹操は、戦いの主導権はこちらにある、敵の矛が長くても突かせなければよいと答えたと、正史の『三国志』は記す。曹操は潼関の正面で敵を引きつけておき、その間に徐晃と朱霊に夜のうちに北の蒲阪津から黄河を渡らせ、西岸に陣を築かせた。

続いて曹操自身が黄河を北へ渡ろうとしたとき、馬超が1万あまりの兵で襲いかかった。曹操は百人ほどの護衛と岸に残って指揮していたが、矢が雨のように降り、側近の許褚が曹操を抱えて船に乗せた。船頭が矢に当たって倒れると、許褚は左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から守り、右手で船を漕いだと伝えられる。このとき校尉の丁斐が牛や馬を放つと、敵の兵がそれを奪い合い、追撃が緩んだ。危うく命を拾った曹操は、のちに「馬の小僧が死なねば、わしは葬られる場所もない」と言ったと、裴松之の注に引く『山陽公載記』は伝える。
曹操の軍は渭水の南に陣を進めたが、砂の土地で塁が築けなかった。そこで砂を積んで水をかけ、一晩で凍らせて城を築いたという話が、裴松之の注に引く『曹瞞伝』にある。策を出したのは婁圭という人だという。ただし裴松之自身が、季節は9月で水が凍るほど寒くはないはずだと疑いを書き添えている。

馬超らは、黄河の西の土地を差し出し、人質を送ると申し出て和を求めた。曹操の参謀の賈詡は、偽って受け入れ、そのうえで二人の仲を裂くよう勧めた。曹操と韓遂は、ともに馬に乗って陣の前で会った。曹操は韓遂の父と同じ年に官吏に推挙された間柄で、韓遂とも若いころからの知り合いだった。二人は軍のことには触れず、都での昔話をして、手を打って笑い合った。戻った韓遂に馬超が何を話したのかと尋ねると、韓遂は何も、昔のことだと答えた。馬超は疑った。
その後、曹操は韓遂に手紙を送った。わざと何か所も字を塗りつぶし、書き直したように見せた手紙である。それを見た馬超は、韓遂が都合の悪いところを消したのだと思い、いっそう疑いを深めた。こうして連合の足並みが乱れたところで、曹操は決戦を挑んだ。初めに軽装の兵で戦いを仕掛けて長く引き回し、敵が疲れたところで、精鋭の騎兵で両側から挟み撃ちにした。成宜と李堪は討たれ、馬超と韓遂は涼州へ逃れ、楊秋は安定に逃げてのちに降った。

戦いのあと、部将たちに作戦の意味を問われた曹操は、こう説明したと正史は記す。初めは潼関を固く守るように見せ、敵がそちらに気を取られている間に蒲阪から渡った。関中は広く、敵がそれぞれの険しい土地に拠れば、平定には一、二年かかる。だから敵が次々に集まってくるたびに、一度に片づけられると喜んだのだ、と。
勝利の代償を払ったのは、鄴にいた馬騰だった。212年、馬騰と一族の200人あまりが処刑された。馬超はその後も涼州で抵抗を続け、213年には冀城を落として刺史の韋康を殺したが、反撃にあって妻子を失い、漢中の張魯のもとへ逃れた。214年、成都を囲む劉備のもとに身を寄せ、その到着が成都の降伏を早めたという(劉備の入蜀)。

後世の『三国志演義』は、この戦いを大きく膨らませた。白い鎧の「錦馬超」が父の仇を討とうと曹操を追い詰め、曹操が目印になる髭を切り、赤い袍を脱ぎ捨てて逃げる。許褚が鎧を脱いで裸で馬超と打ち合う。いずれも正史には無い場面で、物語の作り手が馬超を悲劇の勇将として描いた結果である。正史に残るのは、渡河の危機と、昔話と、塗りつぶした手紙による、冷ややかな心理の戦いだった。