できごと

孫策の江東平定

Sun Ce's conquests in Jiangdong
AD195年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌチャンパ新羅シンハラAD195年南京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD195年の版図を描いています(15勢力)。

概要

孫堅の長男が袁術から父の兵千人を返してもらい、21歳で長江を渡った。劉繇、王朗、厳白虎。5年で江東六郡。「小覇王」。26歳で狩りの途中に刺客に射られ、弟の孫権に「内は張昭、外は周瑜」と言って死んだ。呉の土台を作った男。

場所

南京
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省

関わった人(1)

孫策AD175年–AD200年 · 平定

本文

191年、長沙の太守だった孫堅は、袁術の命で荊州の劉表を攻め、その戦いの最中に矢を受けて死んだ。長男の孫策は17歳ほどだった。父の兵は、父が仕えていた袁術のもとに吸収された。孫策は母や弟たちを連れて江北の地に身を寄せ、やがて袁術のもとに出向いて父の旧臣を返してほしいと願い出た。

袁術は孫策を気に入っていた。「私に孫郎のような息子がいれば、死んでも悔いはない」と言ったと伝えられる。だが、九江の太守に任じると約束しながら別の者を任じ、次に廬江を攻め落とせば太守にすると言ってまた違えた。孫策は袁術を見限り始める。194年の末か翌年のはじめ、江東で苦戦している叔父たちを助けたい、と申し出て、父の兵千人あまりと騎兵数十を返してもらった。長江の北岸の歴陽に着くころには、慕って集まった者で兵は5000から6000に膨らんでいた。幼なじみで同い年の周瑜も、兵と船と兵糧を持って駆けつけた。

孫策の肖像
孫策Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

195年、孫策は長江を渡った。対岸を押さえていたのは、朝廷から揚州刺史に任じられた劉繇である。孫策は牛渚の砦を落とし、劉繇の本拠の曲阿へ迫った。この戦いの中で、劉繇の陣にいた若い武将の太史慈と、偵察に出た孫策が鉢合わせして組み打ちになり、孫策が太史慈の手戟を、太史慈が孫策の兜を奪い合ったという話が、正史の太史慈伝に記されている。劉繇は敗れて西の豫章へ逃げ、太史慈はのちに孫策に降って重く用いられた。

「孫郎が来る」と聞いて、江東の人々ははじめ逃げ隠れた。だが孫策の兵は、鶏や犬、畑の野菜にさえ手を出さないと分かると、人々は牛と酒を持って軍を迎えたと『三国志』の注に引く『江表伝』は書く。劉繇の兵だった者にも、従う者は郷里を問わず取り立て、去る者は無理に引き止めないと布告した。こうして兵は2万を超え、孫策の名は江東に知れ渡った。

孫策はさらに南へ進んだ。196年、会稽を治めていた王朗を破り、呉郡の豪族厳白虎の勢力も打ち払った。197年、袁術が自ら皇帝を名乗ると(袁術の皇帝僭称)、孫策は手紙を送って非を責め、縁を切った。199年には廬江を奪い、豫章の太守の華歆も戦わずに城を明け渡した。このとき廬江の皖で、孫策は橋公の二人の娘のうち姉を、周瑜は妹を娶った。「橋公の二人の娘は流浪の身になったが、我々二人を婿にできたのだから満足だろう」と孫策が周瑜に笑って言ったと、『江表伝』は伝える。会稽、呉、丹陽、豫章、廬陵、廬江の六郡が、わずか5年ほどで孫策の手に入った。

北で袁紹と向き合っていた曹操は、この若者を恐れた。「狂犬の子とは鋒を争いがたい」と嘆いたと伝えられ、弟の娘を孫策の末弟の孫匡に嫁がせ、自分の子に孫氏の娘を迎えて、縁を結んで懐柔した。200年、曹操と袁紹が官渡の戦いでぶつかると、孫策は、曹操が北にかかりきりの隙に許の都を襲い、献帝を迎えようと計画したとされる。

その計画は果たされなかった。孫策はかつて、自分を危険視して朝廷に訴えようとした呉郡の太守許貢を殺していた。200年4月、狩りに出て供の者と離れた孫策を、許貢の食客三人が待ち伏せ、矢が顔に当たった。傷が重いと悟った孫策は、弟の孫権を呼んで印綬を渡し、こう言い残したと正史にある。江東の兵をあげて両陣の間で機を決し、天下と覇を争うことでは、お前は私に及ばない。賢者を挙げ、才ある者に任せて、それぞれに心を尽くさせ江東を保つことでは、私はお前に及ばない。その夜、孫策は26歳で死んだ。孫権は19歳だった。

孫策の死は、陳寿が「英気は傑出し、猛々しさは世に冠たる」と書きながら、父の孫堅とともに「軽はずみで性急だったために身を滅ぼした」と評した生き方の、そのままの結末だった。のちに孫権が皇帝になると、父の孫堅は皇帝の号を贈られたが、孫策は長沙桓王とされただけで、子も侯にとどまった。江東に拠る国の土台を築いたのは孫策なのに報い方が薄い、と陳寿は書き添えている(陳寿『三国志』)。

項羽になぞらえた「小覇王」の呼び名は、『三国志演義』で広まったものである。孫策の死から8年後、孫権と周瑜は赤壁の戦いで曹操の南下を食い止め、やがて呉の国を建てた。その都となった建業、いまの南京は、呉のあとも東晋と南朝の都として300年近く栄える。26歳で死んだ若者が5年で切り取った江東は、そうして中国の南の中心になった。

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