五丈原と諸葛亮の死
概要
五度目の北伐の陣中で没した。蜀が魏を倒す望みはここで絶たれる。
場所
34.40°N 107.62°E · 中国・陝西省岐山
関わった人(2)
諸葛亮AD181年–AD234年 · 当人司馬懿AD179年–AD251年 · 魏側 · 対峙本文
223年に劉備が亡くなると、蜀の政治と軍事は丞相の諸葛亮に委ねられた。劉備は、息子の劉禅が補佐するに足りなければ、君が代わって国を取れ、と言い残したと『三国志』は伝える。諸葛亮はその言葉に従わず、劉禅を立てて国を治めた。まず南方の反乱を鎮め(諸葛亮の南征)、227年、魏を討つ北伐に向けて漢中へ出た。出陣にあたって劉禅に奉った文章が「出師の表」である。
蜀と魏の国力の差は大きかった。蜀が滅びたときの戸籍では人口が94万ほどとされ、魏はその数倍の人口を擁していた。それでも北伐を続けた理由について、諸葛亮は、漢の王室を復興するという大義のほかに、座して待てば国力の差は開くばかりで滅ぶほかない、という考えを示していたと伝えられる。228年以後、北伐は何度も繰り返された。数え方には諸説あるが、234年の出兵は5度目にあたるとされることが多い。いずれの遠征も、補給の難しさが足かせになった。

234年の春、諸葛亮は全軍を率いて斜谷から出撃し、渭水の南の五丈原に陣を敷いた。木牛・流馬と呼ばれる運搬の道具を工夫して食糧を運び、さらに兵に土地を耕させて、長く留まる構えをとった。呉の孫権も同じ時期に魏の東方を攻めたが、まもなく退いた。
魏の総司令官は司馬懿だった。司馬懿は渭水の岸に堅く陣を構え、打って出ようとしなかった。遠くから攻めてきた蜀軍は、いずれ食糧が尽きる。持ちこたえれば勝てると見ていたのである。諸葛亮は女物の衣装を贈って臆病をあざけったが、司馬懿は動かなかった。司馬懿が蜀の使者に、諸葛亮の暮らしぶりを尋ねたという話がある。使者が、丞相は朝早く起きて夜遅く寝て、20回以上の鞭打ちの罰まで自分で裁き、食事はわずかだと答えると、司馬懿は、それでは長くはもつまい、と言ったという。

両軍のにらみ合いは100日あまり続いた。この年の秋8月、諸葛亮は陣中で病に倒れ、そのまま亡くなった。54歳だった。遺言で、漢中の定軍山に葬り、山を墓とし、塚は棺が入るだけの大きさにして、遺体は普段の服のままにするよう命じた。
蜀軍は撤退を始めた。司馬懿が追撃に出ると、蜀軍は旗を翻し太鼓を鳴らして、反撃するかのように構えた。司馬懿はあわてて兵を引いた。人々はこれを「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言いはやした。それを聞いた司馬懿は、生きている者のことは測れるが、死んだ者のことは測れない、と笑ったという。蜀軍が去った後の陣の跡を見て回った司馬懿は、天下の奇才である、と感嘆したと伝えられる。これらの逸話は、正史『三国志』の注に引かれた書物に見える。諸葛亮の像を車に乗せて敵を退かせたという話は、後の小説『三国志演義』の創作である。

諸葛亮の死後、蜀では撤退をめぐって楊儀と魏延が争い、魏延が殺された。その後は蔣琬や費禕が国を守り、やがて姜維が北伐を受け継いだが、国力の差は埋まらなかった。
一方の魏では、五丈原で諸葛亮を退けた司馬懿が、さらに声望を高めた。238年には遼東の公孫淵を滅ぼし、249年には宮廷の政変で実権を握る。司馬懿が持久戦で守り抜いたことは、のちの司馬氏の台頭への一歩でもあった。263年、魏の軍が蜀に攻め込み、劉禅は降伏する(蜀の滅亡)。諸葛亮の子の諸葛瞻は、この戦いで戦死した。五丈原で蜀軍を見送った司馬懿の孫、司馬炎が、まもなく魏に代わって晋を建てる(司馬炎の晋建国)。

諸葛亮は、後世、忠義と知略の人として語り継がれた。陳寿は『三国志』(陳寿『三国志』)で、その政治の公正さをたたえつつ、臨機応変の軍略は得意ではなかったかもしれない、と記している。
その評価をめぐっては、陳寿の父が諸葛亮に処罰された人物だったため、わざと低く書いたのだという説が後世に唱えられた。しかし、陳寿は諸葛亮の文集を編んで晋の皇帝に献上しており、その政治をたたえる筆も惜しんでいない。後世の人々の間では、諸葛亮の名声はますます高まり、後の三国志の物語では、天文を読み風を呼ぶほどの軍師として描かれるようになった。五丈原には今も諸葛亮を祀る廟があり、多くの人が訪れる。