孫権の帝位
概要
曹丕の即位から9年、劉備から8年遅れて、武昌で皇帝になった。呉。三つの皇帝が並んだ。蜀は同盟のために「天に二日なし」を飲んで祝いの使者を送った。翌年、都を建業に戻した。52年在位し、晩年に太子を廃して二人の息子を争わせ、国を弱くした。
場所
30.39°N 114.89°E · 中国・湖北省
関わった人(1)
孫権AD182年–AD252年 · 皇帝本文
229年の春、長江の中流の武昌(いまの湖北省鄂州)で、孫権は皇帝の位に就いた。国の名は呉。魏の曹丕が漢の皇帝から位を譲られて9年、蜀の劉備が皇帝を名乗って8年。中国に三人の皇帝が並び立つ、三国時代がここに完成した。
孫権は182年に生まれた。父の孫堅、兄の孫策が江東の地に築いた勢力を、兄の急死によって18歳で受け継いだ。若い当主は、周瑜や張昭ら父と兄の時代からの家臣をよく用い、208年には劉備と組んで、南下してきた曹操の大軍を赤壁の戦いで退けた。曹操が孫権の陣の整った様子を見て、子を持つなら孫仲謀(孫権の字)のような子がいい、劉表の息子などは豚か犬のようなものだ、と嘆いたという話が伝えられる。

赤壁のあと、孫権と劉備は荊州をめぐって争った。219年、孫権の将軍呂蒙が、北の魏と戦っていた劉備の将軍関羽の背後を突いて荊州を奪い、関羽を殺した(関羽の死と荊州の喪失)。翌年、曹丕が皇帝となり(曹丕の即位(漢の滅亡))、221年には劉備も皇帝を名乗った。劉備が関羽の仇を討とうと大軍で攻め寄せてくると、孫権は背後の魏を抑えるため、曹丕に臣下の礼をとり、「呉王」の位を受けた。この屈服は、のちの時代の歴史家から厳しく責められることになる。
222年、孫権の将軍陸遜は夷陵の戦いで劉備の軍を焼き払って大勝した。危機が去ると、孫権は魏との関係を断ち、独自の年号を立てた。翌年、劉備が失意のうちに死ぬと、蜀の丞相諸葛亮は使者を送って呉との同盟を結び直した。それでも孫権は、すぐには皇帝を名乗らなかった。天に二つの太陽が無いように、天下に皇帝は一人しかいない、という考えがある。皇帝を名乗れば、漢の後継ぎを自任する蜀は同盟を見直すかもしれず、魏は呉を討つ大義名分を得る。孫権は形勢が熟すのを待った。

229年、その時が来た。曹丕はすでに亡く、前年には呉の軍が魏の大軍を石亭で破っていた。蜀の諸葛亮は北の魏への遠征を始め、魏の目は西へ向いていた。黄色い龍が現れたという吉兆の報告を受けて、孫権は皇帝となり、年号を「黄龍」と改めた。
蜀の朝廷では、勝手に帝号を名乗った呉との同盟を絶つべきだという声が多かった。だが諸葛亮は、呉と手を切れば魏と呉の両方を敵に回すことになる、今は呉の帝号を認めて共に魏に当たるべきだ、と説いた。蜀は祝いの使者を送り、両国は、まだ手に入れてもいない魏の領土を、あらかじめ州ごとに分け合う盟約まで結んだ。理念より現実を選んだ同盟だった。

その年の秋、孫権は都を長江の下流の建業(いまの南京)に移した。その後も長江の流域を守り、海の向こうの遼東の公孫氏と結ぼうとしたり、大船団を夷洲(台湾ともいわれる)に送ったりと、海にも目を向けた。江南の開発は呉の時代に大きく進み、建業はのちに南朝の都として栄える土台を得た。のちに孫権の孫の孫晧が武昌へ都を移したとき、建業の水を飲む方が武昌の魚を食べるよりましだ、という童謡が歌われたと伝えられる。
孫権は252年に亡くなるまで、兄の後を継いでから半世紀を超えて江東を治め、皇帝の位にあったのは23年に及んだ。だが晩年の孫権は、猜疑心を強めた。皇太子の孫和と、その弟の魯王孫覇のどちらを跡継ぎにするかで迷い、家臣たちも二つに割れて争った。太子をかばった重臣の陸遜は、孫権から何度も責められて憤りのうちに亡くなった。250年、孫権は孫和を廃し、孫覇には自殺を命じ、まだ7歳の末子孫亮を太子に立てた。この争いは呉の朝廷に深い傷を残した。

『三国志』を書いた陳寿は、孫権を、屈辱に耐えて才ある者を用い、越王勾践のような非凡さを持つ英傑だと評しながら、晩年は疑い深く、殺戮をためらわず、跡継ぎの争いで国が乱れる種をまいた、と記した(陳寿『三国志』)。呉は孫権の死から28年後の280年、晋に滅ぼされる。
南京の紫金山のふもと、梅花山には、孫権の墓があると伝えられる。そのすぐ近くに明の初代皇帝朱元璋の陵が造られたとき、朱元璋は、孫権も好漢だから、そのまま残して自分の陵の門番をさせよう、と言って墓を動かさなかった、という話が残っている。