できごと

三十年戦争

Thirty Years' War
1618年 – 1648年
期間を持つできごと重要度 5
三十年戦争に関わる図版:Carl Friedrich Lessing - The Siege (Defense of a Church Courtyard During the Thirty Years’ War) - Google Art Project
Carl Friedrich Lessing - The Siege (Defense of a Church Courtyard During the Thirty Years’ War) - Google Art Project Wikimedia Commons Karl Friedrich Lessing · Public domain

概要

宗教戦争として始まり、国家どうしの戦争として終わった。ドイツでは地域によって人口が3分の1減ったとされる。

場所

プラハ
50.08°N 14.44°E · チェコ

関わった人(2)

ヴァレンシュタインAD1583年9月24日–AD1634年2月25日 · 皇帝の将軍リシュリューAD1585年9月9日–AD1642年12月4日 · プロテスタントに金を

本文

1618年5月23日、プラハ城の一室に、武装したボヘミアのプロテスタントの貴族たちが押しかけた。彼らは、カトリックの王の代理として国を治めていた2人の顧問官と、その書記を窓から投げ落とした。高さは十数メートルから20メートルほどあった。ところが3人とも命を取り留めた。カトリックの側は聖母マリアや天使に救われたのだと言い、プロテスタントの側は、堀の下に積まれていた汚物の山に落ちたからだと言い伝えた。この「プラハ窓外投擲事件」が、30年続く戦争の始まりになる。

背景には、1555年のアウクスブルクの和議が残した火種があった。この和議は、神聖ローマ帝国の諸侯がカトリックかルター派かを選べると定めたが、その後に広がったカルヴァン派は認めていなかった。教会の財産の扱いをめぐる争いも絶えず、17世紀の初めには、帝国の諸侯はプロテスタントの同盟とカトリックの連盟に分かれて身構えていた。ボヘミアでは、プロテスタントに信仰の自由を約束した特許状があったが、熱心なカトリック教徒のハプスブルク家のフェルディナントが王に選ばれると、その約束が脅かされた。

アウクスブルクの和議に関わる図版:Druck Augsburger Reichsfrieden
アウクスブルクの和議Wikimedia Commons User:Michail · Public domain

窓から顧問官を投げ落としたボヘミアの貴族たちは、フェルディナントを退け、カルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒを王に迎えた。だが1620年11月、プラハ郊外の白山の戦いで、皇帝となったフェルディナント2世とカトリック連盟の軍に大敗する。フリードリヒは一冬で王位を失ったことから「冬王」と呼ばれた。翌年、反乱の指導者たちはプラハ旧市街の広場で処刑され、ボヘミアではプロテスタントの信仰が禁じられた。教育者コメニウスをはじめ、多くの人々が国を去った。

戦争はここで終わらなかった。ハプスブルク家の勝利を恐れたプロテスタントの諸国が、次々に介入したからである。1625年にはデンマーク王が北から攻め込んだが敗れた。皇帝の側でこれを退けたのが、ボヘミアの貴族ヴァレンシュタインだった。私財で巨大な軍隊を集め、占領した土地から税と物資を取り立てて軍を養う仕組みを作り上げた。戦争が戦争を養う、と言われたやり方である。1629年、皇帝は、プロテスタントが手に入れた教会の財産を返させる回復令を出し、カトリックの勝利は頂点に達したかに見えた。

白山の戦いを描いた図
白山の戦いを描いた図Wikimedia Commons Peter Snayers · Public domain

1630年、スウェーデン王グスタフ2世アドルフがドイツ北部に上陸した。よく訓練された軍と機動的な砲兵を率いて、1631年のブライテンフェルトの戦いで皇帝軍を破り、南ドイツまで攻め入った。この年、皇帝側の軍に包囲されたマクデブルクの町は攻め落とされて火に包まれ、2万人以上の住民が死んだとされる。1632年11月、グスタフ・アドルフはリュッツェンの戦いで勝利しながら、自らは戦死した。ヴァレンシュタインも、皇帝に独自の和平交渉を疑われ、1634年に皇帝の意を受けた将校たちに暗殺された。

1635年、皇帝と多くのプロテスタント諸侯は和解した。だがこのとき、カトリックの国フランスが正面から参戦する。フランスの宰相リシュリューは、それまでもスウェーデンやオランダに資金を出して、ハプスブルク家と戦わせてきた。カトリックの枢機卿が、プロテスタントの国々と組んで、カトリックのハプスブルク家と戦ったのである。戦争の性格は、宗教の争いから、フランスとハプスブルク家の覇権争いへと完全に変わった。

フェルディナント1世はドイツとボヘミアのカトリックのために両形色の聖体拝領を認めるためのトリエント公会議を開催させた。
フェルディナント1世はドイツとボヘミアのカトリックのために両形色の聖体拝領を認めるためのトリエント公会議を開催させた。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦場はほとんどドイツの地だった。軍隊は給料も食料も、通る土地から取り立てた。兵士と、それに付き従う家族や商人の大集団が村を通り過ぎると、家畜も穀物も奪われ、家は焼かれ、残された人々は飢えた。戦いの無い土地でも、軍の移動とともにペストやチフスが広がった。17世紀の寒冷な気候による凶作が、それに追い打ちをかけた。同じ時期のドイツでは、魔女狩りも激しさを増している。

人口の減少は、地域によって大きく違う。ほとんど被害を受けなかった土地もあれば、半分以上の人が消えた土地もある。帝国全体では、2割から3割、地域によっては3分の1以上が失われたと推計されている。失われた人口が戦前の水準に戻るまで、100年近くかかった地域もある。ただ、人が死んだのか、よその土地へ逃げたのかを区別するのは難しく、数字には幅がある。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国(ユーリヒ、クレーフェ、ベルク、マルク伯領、ラーフェンスベルク伯領)
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国(ユーリヒ、クレーフェ、ベルク、マルク伯領、ラーフェンスベルク伯領)Wikimedia Commons de:user:Nikephoros · Public domain

戦争の惨状は、同時代の作品にも刻まれた。フランスの版画家カロは、兵士による略奪や処刑を描いた連作の版画を残した。ドイツの作家グリンメルスハウゼンは、戦後の1668年に、戦乱の中で親を失い、兵士として各地をさまよう若者を主人公にした小説『阿呆物語』を書いた。

戦争を終わらせたのは、1648年のウェストファリア条約である。宗派の選択はカルヴァン派にまで広げられ、フランスとスウェーデンは領土を得て、オランダとスイスの独立が認められた。ドイツは数百の領邦に分かれたまま残された。宗教を理由にした戦争として始まり、国家どうしの利害の戦争として終わったこの戦いは、ヨーロッパにおける宗教戦争の時代の、事実上の終わりとされている。

動画(1)

114 三十年戦争 世界史20話プロジェクト第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第114講「三十年戦争」

出典(2)

スティーブン・ピンカー(幾島幸子、塩原通緒 訳) 『暴力の人類史』第3章 文明化のプロセス
イマニュエル・ウォーラーステイン(川北稔 訳) 『近代世界システム』第II巻(中核どうしの争い)

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