できごと

ルワンダ虐殺

Rwandan genocide
1994年
重要度 5
インドアルジェリアスーダンザイールサウジアラビアリビア南アフリカチャドマリアンゴラニジェールエチオピアエジプトモーリタニアタンザニアナイジェリアナミビアモザンビークザンビアソマリア中央アフリカ共和国ボツワナマダガスカルケニアカメルーンジンバブエイエメンオマーンコンゴコートジボワール西サハラブルキナファソギニアガボンウガンダガーナセネガルエリトリアベナンマラウイアラブ首長国連邦リベリアシエラレオネ1994年キガリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1994年の版図を描いています(43勢力)。

概要

100日で80万人以上が殺された。植民地時代に固定された民族の区分が、その下地にあった。

場所

キガリ
-1.94°N 30.06°E · ルワンダ

関わった人(1)

緒方貞子AD1927年9月16日–AD2019年10月22日 · 難民高等弁務官として関わった

本文

1994年4月6日の夜、ルワンダの首都キガリの空港に着陸しようとしていた大統領専用機が、地上からミサイルで撃ち落とされた。乗っていたハビャリマナ大統領と、隣国ブルンジの大統領が死んだ。誰が撃ったのかは、いまも確定していない。政権内のフツの強硬派とする説と、反政府勢力のルワンダ愛国戦線とする説があり、フランスの捜査でも結論は揺れた。

撃墜から数時間のうちに、首都に検問が敷かれた。大統領警護隊と、インテラハムウェと呼ばれる民兵が、用意されていた名簿をもとに家々を回った。最初に狙われたのは、ツチだけではなく、和平を進めようとしていた穏健派のフツの政治家だった。翌朝、首相のアガート・ウィリンジイマナが殺され、護衛にあたっていたベルギー人の国連兵士10人も殺された。

殺害はそこから地方へ広がった。使われたのは主に鉈と棍棒で、銃は検問や大規模な襲撃の場で使われた。村の役場や教会に避難した人々が、まとめて殺された。軍の作戦だけでなく、隣人が隣人を殺す形で進んだことが、この虐殺の際立った特徴である。ラジオ局「千の丘の自由ラジオ」は、ツチを「ゴキブリ」と呼び、どこに誰が隠れているかを放送した。7月に愛国戦線が全土をほぼ制圧するまでの約100日で、50万から80万人以上が殺されたと推計される。ルワンダ政府は100万人を超えるとしている。一日あたりの殺害の速さは、ナチスによるホロコーストをも上回ったとされる。20世紀にはアルメニア人虐殺やカンボジアの大量虐殺もあったが、これほど短い期間にこれほど多くの人が、主に手で持つ道具で殺された例はほかにない。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

ツチとフツの区分には長い経緯がある。植民地以前から二つの呼び名はあったが、牛を多く持つ者、王の周囲にいる者がツチと呼ばれる傾向があり、婚姻や富の変化によって入れ替わることもあったとされる。ドイツ、続いて第一次世界大戦後に統治したベルギーは、ツチを「北から来た優れた民族」とみなす人種論にもとづいてツチを支配の担い手に据えた。1930年代、ベルギーは住民に身分証を持たせ、そこに民族を書き込ませた。移り変わりうる区分が、親から子へ受け継がれる固定した区分になった。1994年、検問ではこの身分証が生死を分けた。

独立が近づくと、ベルギーは今度は多数派のフツの側に立った。1959年からの騒乱でフツが権力を握り、多くのツチが国外へ逃れた。その子どもたちがウガンダで作ったのがルワンダ愛国戦線で、1990年にルワンダへ攻め込み、内戦が始まった。1993年、タンザニアのアルーシャで和平協定が結ばれ、権力を分け合う合意ができた。これを受け入れない強硬派が、裏で民兵を育て、武器を配っていた。

ハム仮説(英語版)の提唱者ジョン・ハニング・スピーク
ハム仮説(英語版)の提唱者ジョン・ハニング・スピークWikimedia Commons Public domain

国際連合の成立は、和平を見守るために平和維持部隊を置いていた。司令官のカナダ人ロメオ・ダレールは、1994年1月、情報提供者から武器の隠し場所とツチ殺害の計画を知らされ、武器庫を押さえる許可をニューヨークに求めた。本部の答えは、権限の範囲外だというものだった。虐殺が始まると、ベルギーは兵を引き揚げ、国連安全保障理事会は4月21日、部隊を約2500人から270人へ減らすことを決めた。アメリカ政府は、介入の義務を生じさせかねない「ジェノサイド」という言葉を公の場で使うのを避けた。知らなかったのではない。知っていて、動かなかったのである。

7月、愛国戦線が首都を落とし、虐殺は止まった。代わりに、報復を恐れた200万人前後のフツが、隣国のザイール(いまのコンゴ民主共和国)やタンザニアへ逃れた。ゴマの難民キャンプではコレラが広がり、数万人が死んだ。キャンプには虐殺の実行者も紛れ込み、難民を盾にして武装を立て直した。国連難民高等弁務官だった緒方貞子は、救援をやめれば無実の難民が死に、続ければ武装勢力を養うという板挟みに立たされ、国際社会に治安部隊の派遣を求め続けた。この問題は、のちに周辺国を巻き込むコンゴの二度の戦争につながっていく。

1992年2月のテオネスト・バゴソラ大佐の日記。市民自己防衛計画の仕組みが記されている。
1992年2月のテオネスト・バゴソラ大佐の日記。市民自己防衛計画の仕組みが記されている。Wikimedia Commons Atomiccocktail · Public domain

裁きは二つの場で行われた。タンザニアのアルーシャに置かれたルワンダ国際刑事裁判所は、1998年、元村長に国際法廷として初めてジェノサイド罪の有罪判決を下し、性暴力がジェノサイドの手段になりうることを認めた。国内では、拘置された者が十万を超え、通常の裁判では裁ききれなかった。そこで、村の集会で証言を聞いて裁く伝統的な仕組みをもとにした「ガチャチャ」と呼ばれる裁判が開かれ、百万件以上が扱われた。

いまのルワンダでは、身分証から民族の欄は消え、公の場で民族を名乗ることは事実上禁じられている。経済の立て直しは注目される一方で、愛国戦線の政権による言論の締め付けや、内戦期の愛国戦線側の殺害が十分に裁かれていないことへの批判もある。翌1995年、ボスニアではスレブレニツァの虐殺が起き、ここでも国連の安全地帯は守られなかった。ルワンダの経験は、国家が自国民を守らないとき国際社会が介入する責任がある、という考え方を生む一つのきっかけになった。

ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であったコフィー・アナン
ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であったコフィー・アナンWikimedia Commons Ricardo Stuckert/ABr · CC BY 3.0 br

ルワンダでは毎年4月7日から100日間を追悼の期間としている。人々が逃げ込んで殺された教会のいくつかは、遺骨や血の跡の残る衣服とともにそのまま残され、記念館になった。殺した者と殺された者の家族が、同じ村で隣り合って暮らし続けている。

出典(2)

ジャレド・ダイアモンド(楡井浩一 訳) 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』第10章 アフリカの人口危機
スティーブン・ピンカー(幾島幸子、塩原通緒 訳) 『暴力の人類史』第6章 新しい平和

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