太公望の斉
概要
渭水で釣りをしていた老人を文王が見つけ、武王の軍師として殷を倒した。功で斉に封じられ、5か月で報告に来て、「礼を簡略にし、土地の風俗に従った」。魯の周公の子は3年かかった。斉は商業の国になり、魯は礼の国になった。
場所
36.83°N 118.30°E · 中国・山東省淄博市(斉の都)
関わった人(1)
太公望(呂尚)建国本文
日本語で「太公望」といえば、釣り人のことである。この呼び名のもとになったのが、中国の周の建国を助けた呂尚、またの名を太公望(呂尚)という人物である。姓は姜、字は子牙。司馬遷の『史記』は、彼が東の海辺の出身で、貧しく、年老いてから周の文王に見いだされたと伝えている。
ただし司馬遷は、二人の出会いについて三つの言い伝えを並べ、どれが本当かは分からないと書いている。最もよく知られているのは、釣りの話である。文王が狩りに出る前に占わせると、獲物は龍でも虎でも熊でもなく、覇王を助ける者だ、という結果が出た。はたして渭水の北岸で、釣り糸を垂れている老人に出会った。語り合ってみると、たいへんな人物である。文王は喜び、自分の祖父の太公が、いつか聖人が周に来て周を興すと言っていた、あなたこそその人だ、太公があなたを望んで久しい、と言って、彼を車に乗せて連れ帰り、師として迎えた。ここから「太公望」の名が生まれたという。

二つめの言い伝えでは、呂尚は学問の広い人で、殷の暴君紂王に仕えたが、その無道に愛想を尽かして去り、諸侯の間を説いて回っても用いられず、最後に西の周にたどり着いた。三つめでは、文王が殷に捕らえられて幽閉されたとき、周の臣下たちが呂尚を招き、ともに美女や宝を紂王に贈って文王を救い出したという。まっすぐな釣り針で魚ではなく王を釣った、という有名な話は、さらに後の時代の物語に見えるものである。
いずれにせよ、呂尚は文王とその子の武王に仕えて、殷を倒す戦いの中心となった。紀元前1046年ごろ、武王は諸侯の軍を率いて殷の都に迫り、牧野の地で紂王の大軍と戦った(牧野の戦い(殷周革命))。出陣の前、亀の甲を焼く占いは不吉と出て、激しい風雨が襲い、群臣は恐れたが、呂尚だけが強く進軍を勧めたと『史記』は記している。牧野の戦いで殷の軍は崩れ、紂王は自ら火に身を投じて死んだ。司馬遷は、周が天下を得るにあたって、呂尚の兵の采配と奇策の働きが大きかったと述べ、後世の兵法を語る者はみな太公を祖と仰ぐ、と書いた。彼の名を冠した兵法書『六韜』は、長く後世の偽作とされてきたが、1972年に山東省の銀雀山の漢代の墓から竹簡が見つかり、少なくとも漢の初めには形をなしていたことが分かった。

殷を倒した功により、呂尚は東方の斉の地に封じられた。都は営丘、のちの臨淄である。斉の地は海に臨み、土地はやせていたが、東夷と呼ばれた土着の人々の勢力が強く、着任してすぐに莱という国の人々と領地を争ったという。呂尚は、周の礼を押しつけるのではなく、その土地の習わしに従い、儀礼を簡素にした。そして、商工業を盛んにし、海の魚と塩の利を生かした。人々は多く斉に集まり、斉は大国になった。
『史記』は、同じころ魯に封じられた周公旦の子、伯禽との対比を伝えている。呂尚は斉に着いて5か月で、政治の様子を報告しに来た。周公が、なぜそんなに早いのかと尋ねると、君臣の礼を簡素にし、その土地の習わしに従ったからだと答えた。伯禽は3年かかって報告に来た。その土地の習わしを改め、礼を正し、3年の喪が明けるのを待ったからだという。周公は嘆いて言った。魯はいずれ斉に仕えることになるだろう。政治が簡素で親しみやすくなければ、民は寄りつかない、と。

この逸話は、後の両国の姿を言い当てたものとして語り継がれた。斉は商工業と海の富で栄え、春秋時代には管仲の改革のもとで、諸侯の筆頭に立った。魯は小国のまま、周の礼を最もよく伝える国として知られ、そこから孔子が生まれた。商いの国と礼の国という対比は、もちろん後世の人々が結果から振り返って作った面もある。
『史記』は、呂尚が100歳あまりで亡くなったと伝えるが、どこに葬られたかについては周の地とも斉の地とも言われ、はっきりしない。彼の子孫が治めた斉は、紀元前4世紀の初め、重臣の田氏に国を奪われるまで続いた。のちの小説『封神演義』では、太公望は神々を封じる仙人として活躍し、いまも東アジアで親しまれる英雄の一人である。