できごと

太公望の斉

Jiang Ziya enfeoffed in Qi
BC1046年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民原アルタイ系の牧畜民カラスク文化チベット系諸集団イラン系の牧畜民ドラヴィダ系の人びとオーストロアジア系の稲作民中華系の人びとZhoaヴェーダ期のアーリヤ人ビルマ系の人びと縄文後期Wuアイヌ朝鮮半島の先住集団BC1046年臨淄
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1046年の版図を描いています(17勢力)。

概要

渭水で釣りをしていた老人を文王が見つけ、武王の軍師として殷を倒した。功で斉に封じられ、5か月で報告に来て、「礼を簡略にし、土地の風俗に従った」。魯の周公の子は3年かかった。斉は商業の国になり、魯は礼の国になった。

場所

臨淄
36.83°N 118.30°E · 中国・山東省淄博市(斉の都)

関わった人(1)

太公望(呂尚)建国

本文

日本語で「太公望」といえば、釣り人のことである。この呼び名のもとになったのが、中国の周の建国を助けた呂尚、またの名を太公望(呂尚)という人物である。姓は姜、字は子牙。司馬遷の『史記』は、彼が東の海辺の出身で、貧しく、年老いてから周の文王に見いだされたと伝えている。

ただし司馬遷は、二人の出会いについて三つの言い伝えを並べ、どれが本当かは分からないと書いている。最もよく知られているのは、釣りの話である。文王が狩りに出る前に占わせると、獲物は龍でも虎でも熊でもなく、覇王を助ける者だ、という結果が出た。はたして渭水の北岸で、釣り糸を垂れている老人に出会った。語り合ってみると、たいへんな人物である。文王は喜び、自分の祖父の太公が、いつか聖人が周に来て周を興すと言っていた、あなたこそその人だ、太公があなたを望んで久しい、と言って、彼を車に乗せて連れ帰り、師として迎えた。ここから「太公望」の名が生まれたという。

太公望(呂尚)の肖像(『三才図会』)
太公望(呂尚)の肖像(『三才図会』)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

二つめの言い伝えでは、呂尚は学問の広い人で、殷の暴君紂王に仕えたが、その無道に愛想を尽かして去り、諸侯の間を説いて回っても用いられず、最後に西の周にたどり着いた。三つめでは、文王が殷に捕らえられて幽閉されたとき、周の臣下たちが呂尚を招き、ともに美女や宝を紂王に贈って文王を救い出したという。まっすぐな釣り針で魚ではなく王を釣った、という有名な話は、さらに後の時代の物語に見えるものである。

いずれにせよ、呂尚は文王とその子の武王に仕えて、殷を倒す戦いの中心となった。紀元前1046年ごろ、武王は諸侯の軍を率いて殷の都に迫り、牧野の地で紂王の大軍と戦った(牧野の戦い(殷周革命))。出陣の前、亀の甲を焼く占いは不吉と出て、激しい風雨が襲い、群臣は恐れたが、呂尚だけが強く進軍を勧めたと『史記』は記している。牧野の戦いで殷の軍は崩れ、紂王は自ら火に身を投じて死んだ。司馬遷は、周が天下を得るにあたって、呂尚の兵の采配と奇策の働きが大きかったと述べ、後世の兵法を語る者はみな太公を祖と仰ぐ、と書いた。彼の名を冠した兵法書『六韜』は、長く後世の偽作とされてきたが、1972年に山東省の銀雀山の漢代の墓から竹簡が見つかり、少なくとも漢の初めには形をなしていたことが分かった。

明初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅
明初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅Wikimedia Commons Dai Jin · Public domain

殷を倒した功により、呂尚は東方の斉の地に封じられた。都は営丘、のちの臨淄である。斉の地は海に臨み、土地はやせていたが、東夷と呼ばれた土着の人々の勢力が強く、着任してすぐに莱という国の人々と領地を争ったという。呂尚は、周の礼を押しつけるのではなく、その土地の習わしに従い、儀礼を簡素にした。そして、商工業を盛んにし、海の魚と塩の利を生かした。人々は多く斉に集まり、斉は大国になった。

『史記』は、同じころ魯に封じられた周公旦の子、伯禽との対比を伝えている。呂尚は斉に着いて5か月で、政治の様子を報告しに来た。周公が、なぜそんなに早いのかと尋ねると、君臣の礼を簡素にし、その土地の習わしに従ったからだと答えた。伯禽は3年かかって報告に来た。その土地の習わしを改め、礼を正し、3年の喪が明けるのを待ったからだという。周公は嘆いて言った。魯はいずれ斉に仕えることになるだろう。政治が簡素で親しみやすくなければ、民は寄りつかない、と。

姜子牙のレリーフ(マレーシアペラ州)
姜子牙のレリーフ(マレーシアペラ州)Wikimedia Commons Photo Dharma from Penang, Malaysia · CC BY 2.0

この逸話は、後の両国の姿を言い当てたものとして語り継がれた。斉は商工業と海の富で栄え、春秋時代には管仲の改革のもとで、諸侯の筆頭に立った。魯は小国のまま、周の礼を最もよく伝える国として知られ、そこから孔子が生まれた。商いの国と礼の国という対比は、もちろん後世の人々が結果から振り返って作った面もある。

『史記』は、呂尚が100歳あまりで亡くなったと伝えるが、どこに葬られたかについては周の地とも斉の地とも言われ、はっきりしない。彼の子孫が治めた斉は、紀元前4世紀の初め、重臣の田氏に国を奪われるまで続いた。のちの小説『封神演義』では、太公望は神々を封じる仙人として活躍し、いまも東アジアで親しまれる英雄の一人である。

同じ時代のできごと

アルファベットの成立BC11世紀頃牧野の戦い(殷周革命)BC1046年(年代に諸説あり)周公旦の摂政BC1042年頃サムエルとサウルBC1030年頃
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