周の穆王
概要
第5代。50歳で即位して55年、と伝わる。犬戎を討ち、徐の偃王を鎮め、刑法「呂刑」を定めた。造父の馭する八駿で西へ行き、西王母に会ったという『穆天子伝』の主人公。旅の王。西周が衰え始めるのは、この王からとされる。
関わったできごと(1)
周の穆王の西征(伝承)BC950年頃 · 王本文
周の第5代の王で、姓は姫、名は満という。穆は死後に贈られた名で、穏やかでうやうやしいことを表す。在位の年代ははっきりしないが、およそ紀元前10世紀の人とされる。

父の昭王は南方の楚を討ちに出て帰らなかった。伝承では、漢水を渡るときに舟が壊れて溺れたという。周が牧野の戦い(殷周革命)で殷を倒してから100年ほどがたち、建国の勢いがかげりを見せ始めた頃だった。『史記』周本紀は、穆王は即位したときすでに50歳で、在位55年で死んだと書く。そのまま足せば100歳を超える。古い王の在位年を長く伝える例は多く、この数字をそのまま信じる研究者は少ない。
『史記』は、穆王の時代に「王道が衰えた」と書き、王がそれを憂えて臣下に戒めの言葉を作らせたと伝える。最もよく知られるのは、西北の遊牧の民・犬戎への遠征をめぐる話である。『国語』によれば、穆王が犬戎を討とうとすると、重臣の祭公謀父が諫めた。先王たちは徳を輝かせて人を従わせ、兵を見せびらかすことはしなかった。遠方の民は時に応じて貢ぎに来ればよく、来ないからといって討つべきではない、と。穆王は聞かずに出兵し、白い狼4頭と白い鹿4頭を得て帰った。だがそれ以来、遠方の民は朝貢に来なくなった、と『国語』は結ぶ。力で押さえつけることの代償を語る教訓話として、後世よく引かれた。
刑法の制定も穆王に結びつけられている。『尚書』の「呂刑」の篇は、穆王が呂侯(甫侯)に命じて刑罰を定めさせたものとされる。顔に入れ墨をする墨刑から死刑の大辟まで五つの刑があり、その条目は合わせて3000にのぼった。疑わしい罪は刑を加えず、銅を納めて贖わせる、という定めが特徴で、刑を慎むことを説く文章になっている。ただし「呂刑」がいまの形になったのはもっと後の時代だとみる説も強い。
穆王の名を何より有名にしたのは、遠い西方への旅の伝承である(周の穆王の西征(伝承))。『史記』趙世家によれば、馬を御するのに巧みな造父が、すぐれた8頭の馬を王に献じた。穆王は造父に馬車を御させて西へ巡り、西王母に会い、楽しんで帰るのを忘れた。そのすきに東方で徐の偃王が背いたので、穆王は1日に千里を走る馬で駆け戻り、これを破った。王は功のあった造父に趙城を与え、これが趙氏の始まりになった。『史記』は秦の祖先も造父と同じ一族だとしており、のちに戦国の世を争い、やがて一方が他方を滅ぼして秦の中国統一へ進む秦と趙は、ともにこの馭者の家につながることになる。
徐の偃王については別の伝えもある。『韓非子』は、偃王が仁義を行って36の国が領地を割いて朝貢したため、楚の文王が恐れて攻め滅ぼした、と書く。楚の文王は春秋時代の人で、穆王とは時代が合わない。偃王の話がいつのことだったのか、穆王と本当に関わりがあったのかは、はっきりしない。
旅の物語がさらに膨らんだのは、西晋の時代、281年頃のことである。いまの河南省にあった戦国時代の魏の王の墓が盗掘され、大量の竹簡が見つかった。その中に、穆王の西方への旅を日を追って記した書があり、『穆天子伝』と名づけられた。穆王は八頭の駿馬に引かせた車で黄河をさかのぼり、崑崙の丘に登って黄帝の宮を見、さらに西へ進んで西王母の国に至る。瑤池のほとりの宴で、西王母は歌った。「白い雲は空にあり、山々はおのずと現れる。道ははるかに遠く、山と川が隔てている。どうかあなたが死なずにいて、また来てくれますように」。穆王は答えた。「私は東の国へ帰って諸国を治め、万民が安らかになったら、またあなたに会いに来よう。3年もすれば、この野に戻ってくる」。王は二度と来なかった。
西王母は、古い地理書『山海経』では虎の歯と豹の尾を持つ神として描かれる。『穆天子伝』の西王母は、それとは違って詩を詠み交わす人間の女王のようである。この書が史実をどこまで伝えるのかは分からない。旅程の地名を中央アジアの実在の土地に当てようとする試みは古くからあるが、決め手は無く、戦国時代に作られた物語と見る研究者が多い。同じ墓から出た年代記『竹書紀年』にも、穆王が西へ行って西王母に会ったという記事がある。
伝承はさらに広がった。後代の『列子』には、穆王が西方から来た幻術師に連れられて天上の宮殿を見る話や、旅の途中で偃師という工匠が献じた人形が歌い踊り、王の侍女に目配せをしたので王が怒った、という話が載る。戦国時代の詩人・屈原は「天問」の中で、穆王はなぜ天下を巡り歩いたのか、と問いかけている。
青銅器の銘文にも穆王の名が刻まれたものがあり、王が実在したことは確かとされる。それでも穆王の姿は、史書の中の「周を衰えさせ始めた王」と、物語の中の「世界の果てまで旅した王」の二つに分かれて伝わってきた。中国で最初の「西へ行った王」の伝説は、のちの張騫の西域行や、漢の武帝が西王母の訪れを受けたという物語にも影を落としている。