項羽
概要
秦を倒した最強の武人。天下を分けたが劉邦に敗れ、垓下で31歳で死んだ。
関わったできごと(2)
鴻門の会BC206年 · 招いた側垓下の戦いBC202年 · 楚側 · 総指揮本文
紀元前232年、長江下流の楚の地に生まれた。名は籍、羽は字(あざな)である。項氏は代々楚の将軍を出した家で、祖父の項燕は、楚が秦に滅ぼされたとき、秦の大軍と戦って死んだ(秦の中国統一)。幼くして親を失った項羽は、叔父の項梁に育てられた。

若い頃から学問は長続きしなかった。『史記』によれば、字を習わせても剣を習わせてもものにならず、叔父が叱ると、字は名前が書ければ十分、剣は一人を相手にするだけ、学ぶなら万人を相手にする術を学びたい、と答えた。そこで兵法を教えたが、それも大筋をつかむと深く学ぼうとはしなかったという。身の丈は八尺を超え、重い鼎を持ち上げるほどの力があり、土地の若者たちは彼を恐れた。
始皇帝が東方を巡って会稽を訪れたとき、項羽は叔父とともにその行列を見物した。そして、あいつに取って代わってやる、とつぶやいた。叔父はあわててその口をふさいだ。同じ頃、のちの宿敵劉邦も都で始皇帝の行列を見て、男子たるもの、ああなりたいものだ、と嘆息したと『史記』は伝える。二人の気性の違いを示す対の逸話として、よく引かれる。

紀元前209年、陳勝と呉広が秦に対して反乱を起こすと(陳勝・呉広の乱)、項梁と項羽も会稽の郡の長官を殺して兵を挙げた。従ったのは、長江の東、江東の若者8000人だった。項梁は楚の王家の子孫を探し出して王に立て、反秦の勢力の中心になった。だが翌年、項梁は秦の名将章邯に敗れて戦死する。
紀元前207年、秦の大軍が趙の鉅鹿を囲んだ。救援に向かった楚軍の総大将宋義は、様子見を決め込んで動かなかった。項羽は宋義を斬って軍を奪い、自ら黄河を渡った。渡り終えると船を沈め、炊事の釜を壊し、陣小屋を焼き、兵には3日分の食糧だけを持たせた。生きて帰るには勝つしかない、と示したのである。のちに「破釜沈舟」という言葉になる。楚の兵は一人で十人に当たる勢いで戦い、秦軍を破った。周りで傍観していた諸侯の軍の将たちは、項羽の陣に呼ばれると、膝をついて進み、顔を上げられなかったという。

章邯は降伏した。だが、西へ向かう途中、降った秦の兵士たちの間に不穏な動きがあると聞いた項羽は、夜のうちに20万人を穴に埋めて殺した、と『史記』は記す。数は誇張とする見方もあるが、この虐殺は、秦の故地の人々の心を項羽から遠ざけた。
その間に、別の道を進んだ劉邦が先に関中に入り、秦の都咸陽を降していた。項羽は怒り、40万の兵で迫った。劉邦は自ら鴻門の陣に出向いて詫びた(鴻門の会)。軍師の范増は、この場で劉邦を殺すよう何度も合図したが、項羽は決断せず、劉邦は宴の途中で逃げ帰った。范増は、天下を奪うのは劉邦だ、我々はみな捕虜になるだろう、と嘆いた。

項羽は咸陽に入ると、降伏していた秦の王子嬰を殺し、宮殿に火を放った。火は3か月消えなかったという。財宝と女たちを奪うと、関中を都にせよという進言を退けて、東へ帰ることにした。富貴の身になって故郷に帰らないのは、錦を着て夜道を歩くようなものだ、誰にも見てもらえない、と項羽自身が言ったと伝えられる。陰で、楚の人は猿が冠をかぶったようなものだと笑った者がいて、項羽はその者を釜ゆでにした。
項羽は西楚の覇王を名乗り、功のあった将たちを18の王に分けて封じた。劉邦は西の辺境、漢中の王にされた。だが、分け方に不満を持つ者が多く、項羽が名目上立てていた楚の王(義帝)を殺させたことも、大義名分を失わせた。まもなく各地で反乱が起き、劉邦も漢中から打って出た。

ここから5年にわたる楚と漢の争いが始まる。戦場の項羽はほとんど負けなかった。紀元前205年、劉邦が諸侯の大軍を率いて項羽の都彭城を落としたときには、わずか3万の兵で引き返し、漢軍を壊滅させた。だが、勝っても勝っても、劉邦は逃げ延びて兵を集め直した。劉邦の側には、補給を支える蕭何、戦場を広げる韓信、知略の張良や陳平がいた。陳平の離間策にかかった項羽は范増を疑い、范増は怒って去り、帰る途中で病死した。
紀元前202年、項羽は垓下で漢の大軍に囲まれた(垓下の戦い)。夜、四方の漢の陣から楚の歌が聞こえてきた。項羽は、漢はもう楚の地をすべて取ったのか、なんと楚の人の多いことか、と驚いた。「四面楚歌」の由来である。項羽は寵愛する虞美人を前に酒を飲み、力は山を抜き、気は世を覆うほどだったが、時に恵まれず、愛馬の騅も進まない、という歌を詠んで涙を流した。

その夜、800騎ほどで包囲を破って南へ逃れたが、道に迷い、追っ手に追われて、最後は28騎になった。長江のほとりの烏江に着くと、渡し場の長が船を用意して、江東に戻って再起するよう勧めた。項羽は、江東の若者8000人と江を渡って西へ向かったのに、いま一人も帰る者がない、たとえ江東の父兄が哀れんで王にしてくれても、何の面目があって彼らに会えようか、と言って断った。愛馬を渡し場の長に与え、徒歩で漢の兵と戦い、自ら首をはねた。数えで31歳だった。
司馬遷は『史記』で、天下を取れなかった項羽を、皇帝の伝記である「本紀」に入れた(司馬遷)。そして、項羽が最後まで、天が自分を滅ぼすのであって戦い方の罪ではないと言い続けたことを、誤りだと批判している。比類のない強さと、人を使えない弱さ。その両方を持った武人の姿は、のちに京劇『覇王別姫』などを通して、悲劇の英雄として語り継がれた。