荊軻の秦王暗殺未遂
概要
燕の太子が送った刺客が、地図の巻物に匕首を隠して謁見した。「風蕭蕭として易水寒し」。失敗し、燕は翌年に落ちる。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
荊軻?–BC227年 · 刺客本文
紀元前3世紀の後半、西の秦は東の六国を次々に呑み込んでいた。紀元前230年に韓が滅び、紀元前228年には趙の都が落ちた。北東の燕は、次は自分の番だと分かっていた。燕の太子丹は、かつて秦に人質として送られていた。子どものころには、同じく趙で人質暮らしをしていた秦の王政、のちの始皇帝と親しかったという。だが秦での扱いは冷たく、丹は恨みを抱いて燕に逃げ帰った。
国の力では、もう秦を止められない。丹は、刺客を送ることにした。王を脅して奪った土地を返させるか、それができなければ殺す。王が死ねば秦の国内は乱れ、諸国が手を結ぶ時間ができる。そう考えた。老いた知恵者の田光が推したのが、荊軻という男だった。

荊軻は衛の人で、本を読み、剣を学んだ。諸国を渡り歩き、燕では犬を殺して売る男や、筑という楽器の名手の高漸離と、市場で酒を飲んで歌い、泣いていたと伝えられる。丹の頼みを荊軻に伝えた田光は、秘密を漏らさないことを示すため、自ら命を絶ったという。
王に近づくには、王が欲しがる土産が要った。一つは、燕の肥えた土地、督亢の地図。もう一つは、秦から逃れて燕にかくまわれていた将軍樊於期の首である。秦は樊於期に重い懸賞をかけていた。丹が首を求めることをためらうと、荊軻は自分で樊於期に会いに行った。一族を秦に殺されていた樊於期は、話を聞くと、その場で自ら首をはねた。

地図の巻物には、毒を塗った匕首が巻き込まれた。人で試すと、かすり傷でもたちまち死んだという。助手には、13歳で人を殺したという若者、秦舞陽がつけられた。易水のほとりで、丹と事情を知る者たちが白い喪服で見送った。高漸離が筑を打ち、荊軻が歌った。風は蕭々として易水は寒い、壮士はひとたび去ればまた還らない。
紀元前227年、咸陽の宮殿。秦舞陽は玉座の前で顔色を変えて震え、群臣に怪しまれた。荊軻は笑って取りなし、一人で地図を進めた。巻物を開いていくと、最後に匕首が現れた。「図窮まりて匕首見る」という言葉は、ここから生まれた。荊軻は左手で王の袖をつかみ、右手で突きかかったが、王は身を引いて袖がちぎれた。
王は剣を抜こうとしたが、剣が長く、鞘から抜けない。秦の決まりで、殿上の臣下は武器を持てず、兵は階段の下で呼ばれるのを待つほかない。王は柱を回って逃げ、荊軻が追う。侍医の夏無且が薬の袋を荊軻に投げつけた。臣下たちが「王よ、剣を背負われよ」と叫び、王は剣を背に回して抜き、荊軻の左の股を斬った。荊軻は倒れたまま匕首を投げたが、柱に当たった。体に8か所の傷を受けた荊軻は、柱にもたれて笑い、足を投げ出して罵った。生け捕りにして約束を取りつけようとしたから、しくじったのだ、と。そして殺された。
この場面は、後の時代の人びとにも繰り返し描かれた。漢代の祠堂の石に刻まれた画像には、柱に突き刺さった匕首、逃げる王、髪を逆立てて襲いかかる荊軻、床に転がる樊於期の首の箱が描かれている。4世紀の詩人陶淵明は「荊軻を詠ず」という詩を書き、その剣の腕が足りなかったことを惜しんだ。現代の中国映画にも、この刺客の話に取材した作品がいくつもある。
これらの場面は、司馬遷の『史記』の「刺客列伝」に書かれている(『史記』の完成)。司馬遷は、あの日の様子を、夏無且と親しかった人から聞いたと記している。荊軻が王を傷つけたという噂は誤りだ、とも書いた。
怒った秦はすぐに燕を攻め、紀元前226年に都の薊を落とした。燕王は太子丹の首を秦に差し出して許しを請うたが、燕は紀元前222年に滅ぼされた。翌年、秦は斉を降して天下を統一する(秦の中国統一)。高漸離はのちに、筑の名手として始皇帝に召し出された。目をつぶされたうえで仕えたが、筑に鉛を仕込んで王に打ちかかり、外して殺されたと『史記』は伝える。以後、始皇帝は滅ぼした国の人を生涯そばに近づけなかったという。