李斯
概要
荀子に学び、秦の丞相として文字と度量衡を統一し、焚書を進言した。始皇帝の死後、趙高と組んで遺詔を書き換え、その趙高に腰斬にされた。
所属
秦関わったできごと(2)
度量衡と文字の統一BC221年 · 主導趙高と二世皇帝BC210年 · 加担し、のちに処刑される本文
楚の国の上蔡、いまの河南省の町に生まれた。生年は分からない。若いころは郡の下級役人だった。『史記』の李斯列伝は、彼の生涯をある場面から書き起こしている。役所の厠にいる鼠は、汚物を食べ、人や犬が来るたびに怯えている。ところが倉の鼠は、積まれた穀物を食べ、大きな屋根の下で人に煩わされることもない。それを見た李斯は、人の賢さも愚かさも鼠と同じで、どこに身を置くかで決まるのだ、と嘆いたという。この話がそのまま事実かは分からないが、彼の一生を言い当てた逸話として伝わってきた。

役所を辞め、儒家の思想家荀子の門に入った。人の本性は悪であり、礼と法で正さねばならないと説いた学者である。同じ門下に、韓の公子韓非がいた。李斯は、自分は才で韓非に及ばないと思っていた、と『史記』は書く。学び終えると、楚では先がないと見て、西の強国秦へ向かった。師に別れを告げるとき、卑しく貧しい身に甘んじるほどの恥はない、と言ったと伝わる。
BC247年ごろ秦に着き、実権を握っていた宰相呂不韋の食客になった。呂不韋に認められて王の近くに仕えるようになり、若い秦王政、のちの始皇帝に策を説いた。諸国の重臣に金を贈って味方に付け、従わない者は刺客で除き、君臣の仲を裂いてから軍を送る。王はこれを採り、李斯を客卿に取り立てた。
BC237年ごろ、秦の朝廷で、他国から来た者を一斉に追い出せという声が上がった。韓から来た技術者が、秦の国力を削ぐために大きな水路を掘らせていたことが露見したのがきっかけだったとされる。楚の出身の李斯も追放の対象だった。彼は国を出る道中で上書した。いわゆる『諫逐客書』である。秦を強くしてきたのは、よその国から来た人材ではないか。泰山は土くれ一つも拒まないから、あれほど高い。王はこの文章を読んで追放令を取り消し、李斯を呼び戻した。名文として後世まで読み継がれる。
BC233年、韓非が使者として秦に来た。王は韓非の著作を読んで、この人と付き合えたら死んでもよいとまで言った人物である。李斯は同僚の姚賈とともに、韓非は結局は韓のために動く、留めて帰せば後の禍になると説き、獄に下させた。そして毒薬を送り、自殺させたと『史記』は書いている。韓非の思想は、その後の秦の政治そのものになった。
BC221年、秦は天下を統一した(秦の中国統一)。重臣たちは、遠い燕・斉・楚の地には皇帝の子を王として封じるべきだと言った。李斯は一人反対した。周も初めは一族を封じたが、代が下ると互いに争い、天子にも止められなかった。全国を郡と県に分け、中央から役人を送って治めるべきだ。皇帝はこれを採り、全国を36郡に分けた。2000年続く中国の中央集権の型がここで決まった。
文字・度量衡・車軸の幅の統一も、彼の名と結びついている(度量衡と文字の統一)。国ごとに違っていた字形を、秦の字を整えた小篆に一本化し、自ら字の手本となる書物を作った。皇帝が各地に建てた石碑の文字は李斯の筆だと伝えられるが、確かめる手立ては無い。
BC213年、宴の席で一人の博士が、古の制度にならって封建を復活せよと説いた。丞相となっていた李斯は、学者たちが古を持ち出して今を謗り、民を惑わしていると論じ、秦の記録・医薬・占い・農業以外の書物を民間から集めて焼くよう進言した(焚書坑儒)。詩経や書経を語り合う者は死罪にする、と。思想を統一する政策の、最も激しい形だった。
BC210年、始皇帝が巡幸の途中、沙丘で死んだ。遺詔は、北の辺境にいる長子扶蘇を都に呼び、葬儀を任せよというものだった。詔を預かっていた宦官の趙高が、李斯に持ちかけた。扶蘇が即位すれば、彼が信頼する将軍蒙恬が丞相になり、あなたは故郷に帰されるだろう、と。李斯はためらい、天を仰いで嘆いたが、最後は従った。三人は遺詔を書き換え、扶蘇には死を命じ、末子の胡亥を二世皇帝に立てた(趙高と二世皇帝)。扶蘇は疑わずに自殺した。
二世の朝廷では、趙高が実権を握った。BC209年、陳勝・呉広の乱が起こり、各地に反乱が広がる。李斯は二世を諫めようとしたが会うことができず、逆に皇帝の機嫌を取るため、臣下を厳しく責め立てるのが君主の道だと説く上書をしている。その間に趙高は、李斯の息子で地方の長官だった李由が反乱軍と通じていると言い立てた。李斯は捕らえられ、拷問の末に謀反を認めた。獄中から無実を訴える書を送ったが、趙高が握りつぶした。
BC208年、咸陽の市場で腰斬に処され、一族も皆殺しにされた。刑場へ引かれるとき、ともに引かれる次男を振り返って言ったという。お前とまた黄色い犬を連れて上蔡の東門を出て、兎を追いたかったが、もうかなわない。親子は声をあげて泣いた。倉の鼠になろうとした男の最後の言葉は、厠の鼠だったころの故郷の思い出だった。翌年、趙高もまた殺され、秦は滅んだ。