できごと

鴻門の会

Feast at Hong Gate
BC206年
重要度 3
鴻門の会に関わる図版:Hongmen Banquet Luoyang Museum
Hongmen Banquet Luoyang Museum Wikimedia Commons ChenDaoIsHere · Public domain

概要

先に咸陽に入った劉邦を、項羽が宴に呼んだ。剣舞にかこつけて殺す手筈が、項羽のためらいで流れる。劉邦は厠へ行くふりをして逃げた。4年後の楚漢の決着が、ここで決まっていたと言われる。

場所

咸陽
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省

関わった人(2)

項羽BC232年–BC202年 · 招いた側劉邦BC256年頃(BC247年説あり)–BC195年 · 逃げた側

本文

秦の中国統一から10年あまりで、秦の天下は崩れはじめた。始皇帝が死ぬと、陳勝・呉広の乱をきっかけに各地で反乱が起き、滅ぼされた六国の王族や有力者がそれぞれに兵を挙げた。そのなかで最も大きな勢力になったのが、楚の名将の家に生まれた項羽と、その叔父の項梁が率いる楚の軍だった。

楚の陣営は、旧王家の子孫を懐王として立てていた。懐王は諸将に、最初に関中(秦の本拠である渭水の盆地)に入って平定した者を、その地の王にする、と約束した。項羽は北へ向かい、秦の主力と戦った。鉅鹿の戦いで秦の大軍を破り、降った秦兵20万を、西へ向かう途中の新安で穴に埋めて殺したと『史記』は書いている。そのあいだに、別の道から西へ進んだのが劉邦だった。

後漢時代の打虎亭漢墓の壁画。宴会・舞踏・音楽・曲芸・相撲の様子を描く
後漢時代の打虎亭漢墓の壁画。宴会・舞踏・音楽・曲芸・相撲の様子を描くWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

劉邦は沛の町の小役人の出で、学問も家柄も無かった。だが人を使うのがうまく、張良や蕭何、樊噲といった者が周りに集まっていた。劉邦の軍は抵抗の少ない道を選んで進み、紀元前206年の冬、秦の都咸陽に先に入った。秦の最後の王子嬰は、首に紐をかけ、白い車に乗って降伏した。劉邦は宮殿の財宝に手を付けず、秦の厳しい法を廃して、人を殺した者、傷つけた者、盗んだ者だけを罰するという「法三章」を約束し、関中の民の心をつかんだ。

そして函谷関を閉じた。関中の王になるつもりだと受け取られても仕方がない。

打虎亭漢墓壁画の一部、楽人と舞人
打虎亭漢墓壁画の一部、楽人と舞人Wikimedia Commons Ancient Chinese artists of the late Eastern Han period · Public domain

遅れて着いた項羽は激怒し、関を破って入り、咸陽の東の鴻門に陣を敷いた。項羽の軍は40万、覇上に陣を張る劉邦の軍は10万。劉邦の陣営から、劉邦が関中の王になろうとしていると密告する者も来た。項羽の軍師范増は、劉邦には天下を狙う気がある、いまのうちに討て、と説いた。

その夜、項羽の叔父の項伯が、ひそかに劉邦の陣へ馬を走らせた。昔、命を救われた恩のある張良に、逃げるよう告げるためだった。張良は劉邦に知らせ、劉邦は項伯をもてなして、自分の子と項伯の子を結婚させる約束まで交わし、項羽への取りなしを頼んだ。

打虎亭漢墓壁画の宴会場面
打虎亭漢墓壁画の宴会場面Wikimedia Commons Ancient Chinese artists of the late Eastern Han period · Public domain

翌朝、劉邦は100騎ほどを連れて、自ら鴻門に赴いた。項羽の前で、自分は将軍が関中に入るのを待っていただけで、逆らう気は無い、関を閉じたのは盗賊に備えるためだった、と詫びた。項羽はそれで怒りを解き、そのまま宴になった。

宴の席で、范増は項羽に何度も目配せし、腰の玉玦(玉の飾り)を三度掲げて、劉邦を討てと合図した。項羽は応じない。范増は席を立ち、項羽の従弟の項荘を呼んで、剣舞を披露するふりをして劉邦を刺せと命じた。項荘が剣を抜いて舞いはじめると、項伯も立ち上がって舞い、身をもって劉邦をかばい続けた。

項羽の肖像
項羽Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

危ういと見た張良は、外にいた樊噲を呼んだ。樊噲は剣と盾を手に、止めようとする衛兵を突き倒して幕の中に入り、髪を逆立て、目を見開いて項羽を睨んだ。項羽は「壮士だ」と言って大杯の酒と豚の肩肉を与えた。樊噲は盾の上で肉を切って食べ、秦を破った功のある者を疑うのは秦と同じだ、と項羽をなじった。

やがて劉邦は厠へ行くと言って席を立ち、樊噲ら4人を連れて、馬車も捨て、自分だけが馬に乗って間道を逃げ帰った。後に残った張良が、劉邦は酒に酔って挨拶もできずに帰った、と詫び、項羽に白い玉を、范増に玉の杯一対を差し出した。

劉邦(漢の高祖)の肖像
劉邦Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

范増は杯を地に置き、剣を抜いて叩き割った。「ああ、小僧とはともに謀ることができない。項王の天下を奪うのは、必ず沛公だ」。沛公とは劉邦のことになる。陣に戻った劉邦は、密告した者をすぐに斬った。

数日後、項羽は咸陽に入り、降伏していた子嬰を殺し、宮殿に火を放った。火は3か月消えなかったと『史記』は書く。項羽は諸将を王に封じ、劉邦を辺境の漢中の王に追いやった。劉邦はやがてそこから打って出て、楚と漢の戦いが始まる。范増は、のちに劉邦の側の離間策で項羽に疑われ、陣を去る途中で病死した。

紀元前202年、項羽は垓下で包囲されて死ぬ(垓下の戦い)。鴻門で劉邦を討っていれば、天下は項羽のものだった、と後世は語ってきた。ただ、この場面の生き生きとした描写は、100年あまり後に書かれた司馬遷の『史記』によるもので、どこまでが実際のやりとりだったのかは確かめようがない。それでも「鴻門の会」は、見せかけの和やかさの下で命のやりとりが行われる宴の代名詞として、いまも使われている。

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