できごと

垓下の戦い

Battle of Gaixia
BC202年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝匈奴周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国シンハラBC202年垓下(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC202年の版図を描いています(12勢力)。

概要

四面楚歌。項羽が敗れ、5年続いた楚漢の争いが終わる。

場所

垓下位置は特定されていない(誤差 ±30km)
33.55°N 117.55°E · 中国・安徽省霊璧付近(位置に諸説ある)

関わった人(3)

項羽BC232年–BC202年 · 楚側 · 総指揮劉邦BC256年頃(BC247年説あり)–BC195年 · 漢側 · 総指揮韓信?–BC196年 · 漢側 · 指揮

本文

秦が倒れたあと、天下の行方を決めたのは項羽だった。紀元前206年、項羽は自らを西楚の覇王と称し、功のあった将たちを王に封じた。先に関中へ入っていた劉邦は、約束を反故にされて西の奥地、漢中の王に回された。鴻門の会で命拾いした劉邦にとって、これは体のいい追放だった。

劉邦はその年のうちに関中へ打って出る。翌年には諸侯を糾合して項羽の都、彭城を落とした。だが斉で戦っていた項羽は精兵3万を率いて引き返し、数十万と号した漢の連合軍を一日で崩した。劉邦は家族を置き去りにして逃げ、父と妻の呂雉は楚の捕虜になる。戦場での強さという点で、項羽に並ぶ者はいなかった。

項羽の肖像
項羽Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

それでも劉邦は負けを重ねながら持ちこたえた。関中には蕭何がいて、兵と食糧を前線へ送り続けた。滎陽と成皋で項羽を釘付けにしているあいだ、別働隊の韓信は北へ回り、魏・趙を破り、燕を従え、斉を平らげた。楚は正面では勝ち続けながら、気づけば周囲を囲まれていた。

紀元前203年、両軍は疲れ果て、鴻溝を境に天下を二分する和約を結んだ。項羽は劉邦の父と妻を返し、東へ引き揚げはじめる。劉邦も兵を退こうとしたが、張良と陳平が止めた。いま楚は兵が疲れ食糧も尽きている、これを見逃せば虎を養って災いを残すことになる、と。劉邦は約束を破って追った。

劉邦(漢の高祖)の肖像
劉邦Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

追撃ははじめうまくいかなかった。合流するはずの韓信と彭越が来ず、劉邦は固陵で項羽に打ち返されている。張良の進言で、劉邦は二人に広い領地を約束し、ようやく大軍がそろった。項羽は垓下で包囲される。『史記』は、韓信が30万を率いて当たり、項羽の兵は10万ほどで食糧も尽きていたと記す。垓下の位置は、いまの安徽省霊璧県のあたりとされるが、異説もある。

夜、漢の陣の四方から楚の歌が聞こえた。項羽は、漢はもう楚の地をすべて取ったのか、なんと楚人の多いことか、と驚いたという。漢軍に降った楚の兵が多かったためとも、劉邦側の計略だったとも解される。ここから、周りがみな敵になる「四面楚歌」の語が生まれた。

韓信の肖像
韓信Wikimedia Commons Public domain

項羽は帳の中で酒を飲み、「力は山を抜き、気は世を蓋う。時利あらず、騅ゆかず」と歌った。騅は愛馬の名である。寵愛した虞美人がこれに和したと『史記』は書く。虞美人がそこで自害したという筋は後の伝承で、『史記』自体には彼女の最期は書かれていない。

項羽は八百余騎を率いて夜のうちに囲みを破り、南へ走った。淮水を渡ったときには百余騎に減り、道を尋ねた農夫に欺かれて沼地に迷い込み、追いつかれる。東城まで来たときには28騎だった。項羽は、天が自分を滅ぼすのであって、戦い方が悪かったのではない、と言い、それを示すかのように漢の陣へ三度切り込んで、そのたびに敵将を討ったと伝えられる。

烏江のほとりで、渡し場の長が船を用意して待っていた。江東は小さいが、王となるには足りる、と勧めた。項羽は笑って断った。かつて江東の子弟八千人と川を渡って西へ向かったが、いま一人も帰らない。江東の父兄が憐れんで王にしてくれても、どの顔で会えるのか、と。騅を長に与え、徒歩で戦い、追手の中に旧知の呂馬童を見つけると、自分の首には千金と万戸の懸賞がかかっていると聞く、おまえに手柄をやろう、と言って自ら首をはねた。数えで31歳だった。遺体は奪い合いになり、五つに分けて持ち帰った5人がそれぞれ侯に封じられた。

同じ年、劉邦は皇帝の位に就いた。漢はこの後およそ400年続く。勝因について、劉邦自身が後に語った言葉が『史記』に残る。陣中で策を巡らすことでは張良に、国を治め兵糧を絶やさぬことでは蕭何に、大軍を率いて必ず勝つことでは韓信に及ばない。自分はこの三人を使えた。項羽には范増一人がいたが、それすら使えなかった、と。

勝ったあとの漢は、功臣に冷たかった。垓下の戦いのすぐ後、劉邦は韓信の兵権を取り上げて斉王から楚王に移し、やがて謀反の疑いで降格させる。韓信は紀元前196年、呂后の手で殺された。項羽を倒した三人の柱のうち、無事に生涯を終えたのは身を引いた張良と、疑いを避け続けた蕭何だけだった。

同じ時代のできごと

『ラーマーヤナ』の成立BC5世紀からAD2世紀にかけて秦の中国統一BC221年度量衡と文字の統一BC221年サグントゥム攻囲BC219年トレビアの戦いBC218年12月第二次ポエニ戦争BC218年ハンニバルのアルプス越えBC218年秋トラシメヌス湖の戦いBC217年6月21日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC202年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →