商鞅
概要
秦で法を徹底し、身分より功で報いる仕組みを作った。国は強くなり、本人は車裂きにされた。
所属
秦関わったできごと(1)
商鞅の変法BC356年 · 当人本文
商鞅は紀元前390年ごろ、中国の小国衛の公族に、正妻でない母から生まれた。姓は公孫、名は鞅で、衛の出なので衛鞅とも呼ばれる。商鞅という名は、晩年に商の地を領地として与えられたことによる。若い頃から刑名の学、つまり法と刑罰によって国を治める学問を好んだと、『史記』の列伝は書く。時代は戦国の初め、晋が三つに分かれて(三家分晋(戦国時代の始まり))、大国どうしが生き残りをかけて争い始めた頃である。

はじめ、隣の大国魏の宰相公叔痤に仕えた。公叔痤は死の床で、見舞いに来た魏の恵王に、衛鞅は若いが優れた才を持っている、国をあげて任せなさい、と勧めた。王が黙っていると、人払いをしたうえで、用いないのなら殺して国の外へ出してはならない、と付け加えた。王が去ると、公叔痤は衛鞅を呼んで事情を明かし、早く逃げよと言った。衛鞅は、王があなたの用いよという言葉を聞かなかったのなら、殺せという言葉も聞かないでしょう、と答えて逃げなかった。王は実際、公叔痤はもうろくしていると言って取り合わなかった。
紀元前361年、西方の秦で孝公が即位し、国を強くする策を持つ者を広く求めた。秦は中原の国々から、辺境の野蛮な国と見下されていた。衛鞅は秦に入り、孝公の寵臣を通じて謁見した。最初に古の聖王の道を説くと、孝公は居眠りをした。次に王道を説いても気に入られず、三度目に、富国強兵によって覇者となる道を説くと、孝公は思わず膝を進めて聞き入り、何日も話し込んで飽きなかったという。
秦の重臣たちは、古いしきたりを変えることに反対した。衛鞅は孝公の前で彼らと論じ、世を治めるのに一つの道があるわけではない、国の利益になるなら古いやり方に従う必要は無い、と押し切った。紀元前356年ごろ、最初の改革が始まった(商鞅の変法)。民を5戸、10戸の組に編成して互いに見張らせ、罪を知りながら告発しない者は腰斬の刑とし、告発した者には敵の首を取ったのと同じ褒美を与える。一家に成年の男子が二人以上いて分家しない者には税を倍にする。戦場で敵の首を取った者には、その数に応じて爵位を与え、私的な争いで戦う者は罰する。農業と機織りに励んで多くを納めた者は労役を免じ、商いや怠けで貧しくなった者は家族ごと奴隷とする。王族であっても、軍功が無ければ一族の名簿から外す。家柄ではなく、戦いと耕作の働きだけが、人の地位を決める仕組みである。
法を公布する前に、衛鞅は民に法を信じさせる工夫をした。都の南門に長さ3丈の木を立て、これを北門まで運んだ者に10金を与えると告げた。誰も信じないので50金に上げると、一人の男が半信半疑で運んだ。衛鞅はその場で約束どおり50金を与え、政府は言ったことを必ず守ると示してから、法を施行したという。
法は、身分の高い者にも例外なく適用された。改革の初め、新しい法を不便だと訴える者が都に千人単位で押しかけたころ、太子が法を犯した。衛鞅は、法が行われないのは上の者が犯すからだと言い、跡継ぎの太子を罰することはできないので、太子の守り役の公子虔を刑に処し、教育係の公孫賈に入れ墨の刑を科した。秦の人々は皆、法に従うようになった。のちに公子虔が再び法を犯すと、今度は鼻を削ぐ刑に処した。
紀元前350年、2度目の改革が行われた。都を咸陽に移し、小さな村々をまとめて県を置き、中央から役人を送って治めさせた。田の区画を作り直して土地を広げ、税を公平にし、ますや物差しを統一した。父子や兄弟が同じ部屋で暮らすことを禁じた。10年たつと、道に物が落ちていても拾う者がなく、山に盗賊がいなくなり、民は公の戦いには勇敢で私の争いを恐れるようになったと、『史記』は書く。
紀元前340年、衛鞅は魏を攻めた。魏の将軍公子卬はかつての友人だった。衛鞅は、昔のよしみで戦わずに盟約を結ぼうと手紙を送り、和睦の宴に招いた公子卬を伏兵で捕らえて、魏の軍を破った。この功で、商などの15の邑を領地として与えられ、商君と呼ばれるようになった。ある人は、商君の政治は恨みを積み重ねすぎている、身を引くべきだと忠告したが、彼は聞き入れなかった。
紀元前338年、孝公が死に、かつて法を犯した太子が恵文王として即位した。鼻を削がれた公子虔の一派が、商君が謀反を企てていると訴えた。商君は逃げ、国境の関所の近くで宿を求めたが、宿の主人は相手が誰とも知らずに、商君の法では、身元を示す証の無い客を泊めれば罪に問われる、と断った。商君は、法を作った弊害がここまで来たか、と嘆いたという。魏へ逃げ込もうとしたが、公子卬を欺いたことを恨む魏はこれを受け入れなかった。商の領地へ戻って兵を挙げたが敗れて殺され、遺体は車裂きにされ、一族も滅ぼされた。
商君は死んだが、秦は彼の法を捨てなかった。軍功と耕作で人を評価し、県を通じて中央が民を直接治める仕組みは、その後の秦の強さの源になった。117年後、秦は六国を滅ぼして中国を統一する(秦の中国統一)。法による統治を説いた思想は、のちに韓非によって理論にまとめられ、法家と呼ばれた。一方で、秦の厳しい法は始皇帝の死後に民の反乱を招き、儒家からは人の情を顧みない政治の代表として非難され続けた。法は作った者をも縛る。その最期の逸話は、この人の生涯をよく言い当てている。