人物

武丁

Wu Ding
? – BC1190年頃
殷重要度 4

概要

殷の第22代。傅説を夢で見つけて宰相にし、59年治めて殷を最盛期にした。甲骨文の大半が彼の時代。占いは王自身がした。「武丁中興」。殷墟の王墓は、彼の時代から。

関わったできごと(1)

武丁と婦好BC1200年頃 · 王

本文

武丁は、殷の第22代とされる王で、紀元前13世紀の後半に長く国を治め、殷を最も盛んな時代に導いた。名は昭と伝えられ、のちの廟号は高宗である。殷墟から出た甲骨文のうち、半ばを超える量が彼の時代のものとされ、伝説ではなく、本人が残した記録から姿をたどれる中国で最初の王と言ってよい。

武丁
武丁Wikimedia Commons Wang Qiji of the Ming Dynasty, Wanli engraved "Three Talents Picture Club" · Public domain

武丁の父は小乙で、その前の兄たちの代を含め、殷は王位をめぐる争いでしばらく衰えていた。都を安陽の地に移したとされる盤庚(盤庚の遷都)は、小乙の兄にあたる。『史記』などの伝えによれば、武丁は若いころ父の命で民の間に暮らし、農作業の苦労を知ったという。

即位した武丁について、古い書物は不思議な話を伝えている。父の喪に服した武丁は、三年のあいだ口をきかず、政治を臣下に任せて国の様子を見守った。『論語』では、弟子の子張がこの話の意味を尋ね、孔子は、高宗に限らず昔の人はみなそうしたのだ、君主が死ねば百官は三年のあいだ宰相の指図に従ったのだと答えている。

武丁期の青銅器・簋(き)
武丁期の青銅器・簋(き)Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

武丁はまた、夢の中で一人の聖人を見たという。目覚めて臣下を見渡したが、夢の人はいなかった。そこでその姿を描かせて国中を探させると、傅険という所で土木の労役に就いていた説という男が見つかった。罪を負って働かされていた身分だったとも言われる。武丁は彼と語り合って、まさに夢の人だと知り、宰相に取り立てた。土地の名から、この人を傅説と呼ぶ。のちの儒家は、身分を問わず賢者を用いた王の手本としてこの話を語った。『書経』には傅説と武丁の問答とされる篇があるが、それは後の時代に作られた偽の篇とされている。

甲骨文が語る武丁は、もっと生々しい。殷の王は、牛の肩甲骨や亀の甲羅に穴を彫って火で焼き、生じたひびの形で神意を問い、その問いと答えを刻みつけた(甲骨文字)。武丁の時代には、占いの専門家である貞人が多く仕えていたが、ひびを読んで吉凶を言い渡すのは王自身だった。「王占いて曰く」で始まる判断が刻まれ、ときにはその後の結果まで書き添えられている。

甲骨文字に関わる図版:Shang Inscribed Ox Scapula (for divination)
甲骨文字Wikimedia Commons CC0

問われた内容は、王の暮らしのすべてにわたる。雨は降るか、今年の実りはよいか、どの祖先に何頭の牛を捧げるべきか、どの国を討つべきか。王の歯が痛むのは亡き父の祟りか、と問う骨もあり、王が見た悪い夢の意味を問う骨もある。妃の一人である婦好(婦好)の出産を占った甲骨には、王が丁の日に産めばよいと判断したところ、実際には別の日に生まれ、女の子だったのでよくなかった、と結果が記されている。三千年余り前の王家の暮らしの一場面が、そのまま残っているのである。

甲骨には、武丁の妃として「婦」の字を冠した名が数十人も現れる。そのすべてが妃だったかについては議論があるが、婦好のように自ら兵を率いて戦い、祭祀を執り行った女性もいた(武丁と婦好)。

武丁期の青銅器「后母辛」簋
武丁期の青銅器「后母辛」簋Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

武丁の時代は、戦いの時代でもあった。甲骨には、西の羌、北西の土方、南の巴方、東の夷など、周りの多くの勢力との戦いが記されている。一度の出兵に数千、ときに一万を超える兵を動員したとする記録もある。『易経』には、高宗が鬼方を伐ち、三年かかってこれに克った、という句が残る。これらの戦いを通じて、殷の勢力は黄河の中流と下流の広い範囲に及んだ。

戦いで捕えた人々の多くは、祭りの犠牲になった。殷の人々は、亡くなった祖先が天上で生きる者の運命を左右すると信じ、牛や羊や犬とともに人を捧げた。とくに西方の羌の人々は繰り返し犠牲とされ、一度の祭りで数十人、ときに数百人を捧げたことを記す甲骨もある。王墓の周りからは、首を斬られた多数の人骨が出ている。王朝の繁栄は、こうした苛烈な祭祀と表裏をなしていた。

婦好墓出土、武丁期の青銅器・卣(ゆう)
婦好墓出土、武丁期の青銅器・卣(ゆう)Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

武丁は五十九年にわたって王位にあったと伝えられる。中国の年代研究の国家事業は、その在位を紀元前1250年頃から紀元前1192年頃と見積もった。死後は子の祖庚、祖甲が継いだ。祖甲の代になると、祖先たちを決まった順番で祀る暦が整えられ、甲骨の占いも型にはまったものに変わっていく。武丁の時代の甲骨の豊かさは、王自身が何でも占わずにはいられなかった時代の産物でもあった。

殷墟の王の墓の区画には、四方に墓道を持つ巨大な墓が並び、その一つを武丁の墓とする説がある。だが王墓はどれも古くに盗掘されていて、確かなことは分からない。一方、宮殿の区画で1976年に見つかった婦好の墓は、盗掘を免れ、青銅器や玉器が手つかずのまま出てきた。甲骨の中の名と墓の主が結びついた発見で、武丁の時代の豊かさを今に伝えている。

武丁期の青銅の三連甗(げん、蒸し器)
武丁期の青銅の三連甗(げん、蒸し器)Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

殷は武丁の後もおよそ百数十年続き、紂王のときに周の武王に牧野の戦い(殷周革命)で敗れて滅びた。後の時代、武丁は殷を立て直した中興の名君として語り継がれた。だがその実像を最もよく伝えるのは、後世の称賛ではなく、彼が自ら焼き、読み、刻ませた無数の骨のひびである。

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