人物

韓信

Han Xin
? – BC196年
前漢重要度 3

概要

劉邦に天下を取らせた用兵の名手。統一が成ると謀反を疑われ、殺された。

所属

前漢

関わったできごと(1)

垓下の戦いBC202年 · 漢側 · 指揮

本文

韓信の生涯は、ほぼすべてを司馬遷の『史記』淮陰侯列伝に負っている(『史記』の完成)。生年は分からない。生まれは淮水のほとりの町、淮陰(いまの江蘇省)である。秦の中国統一ののち、秦の法が国の隅々に及んだ時代に若者だった。

韓信の肖像
韓信の肖像Wikimedia Commons Public domain

若いころの韓信は、貧しく、行いも定まらなかった。役人に推されることもなく、商いで暮らす才覚もなく、いつも人の家に上がり込んで食べさせてもらっていた。ある村の長の家に何か月も居候したところ、その妻が朝早く食事を済ませてしまい、韓信が来ても出さなかった。韓信は腹を立てて去った。川で釣りをしていると、綿をさらしていた老女が、飢えた彼を見かねて、数十日のあいだ食べ物を分けてくれた。いつか必ずお返しをすると言うと、老女は、一人前の男が自分で食べることもできないのが哀れで食べさせただけだ、礼など望むものか、と怒った。

町の若い肉屋が、韓信をからかった。図体は大きく剣を下げているが、中身は臆病者だろう。死ぬ気があるならおれを刺せ、無いならおれの股の下をくぐれ。韓信はしばらく相手を見つめていたが、身をかがめて股の下をくぐった。町じゅうの者が笑った。「韓信の股くぐり」の話である。

歌川国芳「韓信胯潜之図」
歌川国芳「韓信胯潜之図」Wikimedia Commons Public domain

秦の末に反乱が起きると、韓信は剣を携えて項梁の軍に加わり、その死後は項羽に仕えた。何度も策を献じたが、取り上げられなかった。紀元前206年、劉邦が漢中へ移されると、韓信はそちらへ走った。だがここでも低い役にとどまり、あるとき罪に問われて斬られかけた。仲間13人がすでに斬られ、自分の番になったとき、王は天下を取りたくないのか、なぜ壮士を斬るのか、と叫び、見とがめた将に命を救われた。

劉邦の軍からは、故郷を恋しがる兵や将が次々に逃げていた。韓信も見切りをつけて逃げた。それを聞いた丞相の蕭何は、劉邦に告げる暇もなく自ら馬で追いかけ、連れ戻した。劉邦が、逃げた将は何十人もいたのに、なぜ韓信だけ追ったのかと問うと、蕭何は、ほかの将はいくらでも得られるが、韓信は国に二人といない人物だ、王が漢中の王で満足するなら要らないが、天下を争うなら韓信のほかにともに謀る者はいない、と答えた。劉邦は壇を築き、儀式を整えて、韓信を大将に任じた。

与謝蕪村「蕭何追韓信図屏風」
与謝蕪村「蕭何追韓信図屏風」Wikimedia Commons Yosa Buson · Public domain

それから韓信は、ほとんど負けなかった。まず関中の三つの国を平らげ、劉邦が項羽に大敗したあとは、別働隊を率いて北の魏、代、趙を次々に攻めた。紀元前204年、趙との井陘の戦いでは、わざと川を背にして陣を敷いた。逃げ場を断たれた兵は死にものぐるいで戦い、そのあいだに別の部隊が空になった敵の城を奪って、漢の赤い旗を立てた。兵法の常識に反する布陣を問われた韓信は、兵を死地に置いてこそ生きる、と兵法書にあるではないか、と答えた。これが「背水の陣」である。

翌年、東の大国斉を攻め、救援に来た項羽の将竜且を、川の上流を土嚢でせき止めて敵が半ば渡ったところで水を落とすという策で破った。斉を平定すると、韓信は劉邦に、斉を治めるために仮の王にしてほしいと使いを送った。劉邦は苦しい戦いの最中で激怒したが、張良と陳平に足を踏まれて気づき、どうせなら本当の王になれと言って、斉王に封じた。

韓信
韓信Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

このとき韓信は、天下の行方を握っていた。項羽の使者も、弁舌家の蒯通も、漢から独立し、天下を三つに分けて王となるよう勧めた。韓信は、漢王は自分の衣を脱いで私に着せ、自分の食べ物を私に食べさせてくれた、その恩に背けない、と言って断った。紀元前202年、韓信は大軍を率いて垓下の戦いに加わり、項羽を囲んだ。夜、漢の陣から楚の歌が聞こえ、項羽が楚の民までが漢に降ったかと嘆いた「四面楚歌」の場面である。

天下が定まると、劉邦はすぐに韓信の兵を取り上げ、楚王に移した。韓信は故郷に帰り、かつての老女に千金を贈り、股をくぐらせた肉屋を役人に取り立てた。あのとき殺してもよかったが、殺したところで名は上がらなかった、と言ったという。翌年、謀反の訴えがあり、劉邦は巡幸を装って韓信を捕らえた。韓信は、すばしこい兎が死ねば猟犬は煮られ、高く飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はしまわれる、と言われるとおりだ、と嘆いた。罪は許されたが、淮陰侯に落とされ、都に留め置かれた。

淮陰侯・韓信の肖像
淮陰侯・韓信の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ある日、劉邦が、自分ならどれほどの兵を率いられるかと問うと、韓信は、陛下はせいぜい10万、私は多ければ多いほどよい、と答えた。それならなぜ私に捕らえられたのかと笑われると、陛下は兵の将ではなく、将の将だからです、と言った。

紀元前196年、韓信は、北方で反乱を起こした陳豨と通じたとして訴えられた。劉邦が討伐に出ている留守に、皇后の呂后は蕭何と謀り、反乱が鎮まった祝いと偽って韓信を宮中に呼び出し、捕らえて斬った。韓信は、蒯通の策を用いなかったことが悔やまれる、と言い残したという。一族も皆殺しにされた。韓信を見いだしたのも蕭何なら、死なせたのも蕭何だった、と後に言われる。『史記』は、韓信がもし謙虚に功を誇らずにいれば、と惜しみつつ、天下が定まってから謀反を企てた愚かさを責めている。

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