半坡の村
概要
西安の東で1953年に出た仰韶文化の村。半地下の家、溝、共同墓地、魚の顔の彩文土器。粟を作り、豚を飼い、犬と暮らした。母系の氏族社会だと中国は説明した。黄河の農耕の村の、最も分かりやすい形。
場所
34.27°N 109.05°E · 中国・陝西省
本文
1953年、中国の陝西省西安の東郊、滻河の東の台地で、工場の建設にかかろうとしていたところ、古い遺物が出てきた。翌1954年から1957年にかけて、中国科学院の考古学研究所が、石興邦らを中心に発掘を行った。これが半坡遺跡である。新しい中国が成立してまもない時期に、大規模に掘り広げられた新石器時代の村の遺跡だった。
半坡は、仰韶文化に属する。仰韶文化という名は、1921年、スウェーデンの地質学者アンダーソンが河南省の仰韶村で、赤い地に黒い文様を描いた土器(彩陶)を伴う遺跡を見つけたことに由来する。仰韶文化は黄河の中流域を中心に、紀元前5000年ごろから紀元前3000年ごろまで続いた。半坡の村が営まれたのは、そのうちの早い時期、紀元前4800年ごろから紀元前4300年ごろとされる。

遺跡の広さは約5万平方メートルで、そのうちおよそ1万平方メートルが掘られた。村の中心の居住区は、深さ5メートルから6メートル、幅6メートルから8メートルほどの大きな溝に囲まれていた。外敵や獣を防ぐためとも、水を引いたり排水したりするためとも考えられている。溝の内側からは、40余りの住居の跡が見つかった。住居は円形や方形の半地下式で、地面を掘り下げ、柱を立てて屋根をかけ、中央に炉があった。村の中ほどには、ほかよりずっと大きな方形の建物があり、集会や共同の儀礼に使われた場所と考えられている。
住居のまわりには、食料などを蓄えた200を超える穴蔵があった。溝の外側の東には土器を焼く窯が6基、北には大人を葬った共同墓地があった。墓は250ほど見つかっている。大人の遺体の多くは一人ずつ葬られ、土器などが添えられていた。幼い子どもは、甕を棺にして、住居の近くに葬られた。甕の蓋にあたる鉢の底には、小さな穴があけられているものがあった。魂の出入り口と考える説がある。

半坡の人々は粟を作り、豚や犬を飼っていた。貯蔵の穴からは炭化した粟が見つかり、土器の中からは菜っ葉の類の種も出ている。狩りで鹿などをとり、川で魚をとった。骨の釣り針や網のおもり、石の斧や鍬が出土している。紡錘車や骨の針も見つかり、布を織り、衣を縫っていたことが分かる。黄河の流域で粟や黍を作る畑作の村があったころ、南の長江の下流域では稲を作る村が営まれていた(河姆渡の稲)。中国の農耕は、少なくとも二つの中心から始まったと考えられている(農耕の始まり)。
半坡を有名にしたのは、彩陶の鉢に描かれた人の顔と魚の文様である。丸い人の顔の両耳のあたりや口の両側に魚が描かれ、頭には三角の飾りのようなものが載っている。魚の文様はほかにも多く、半坡の人々にとって魚が特別な意味を持っていたことをうかがわせる。祖先や氏族のしるしとする説、豊かな漁を願う呪術とする説などがあるが、何を表しているのかは分かっていない。土器の口の縁には、二十数種類の刻まれた記号も見つかっている。文字の起源と結びつける説もあるが、文字と言えるかどうかには慎重な意見が多い。

発掘の当時、中国の考古学者たちは、半坡を母系の氏族社会の村だと説明した。19世紀のエンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』が説いた、人類の社会は母系の原始共産制から始まるという図式に、半坡の発見を当てはめたのである。墓の副葬品に男女の差や貧富の差がほとんどないこと、大きな共同の建物があることが、その根拠とされた。1958年、遺跡の上に屋根をかけた半坡博物館が開館した。中国で最初の遺跡博物館で、この説明とともに、長く教科書に載り続けた。
いまでは、半坡が母系社会だったかどうかは、遺跡から確かめられることではないと考えられている。墓に差が少ないことは、社会が比較的平等だったことを示すかもしれないが、家の系譜を母方でたどったかどうかまでは分からない。仰韶文化の後には、黒い磨いた土器と城壁を持つ竜山文化が続き、さらに宮殿を持つ二里頭の宮殿が現れる。半坡は、そこへ至る黄河の農耕の村の、最もよく知られた姿の一つである。