できごと

焚書坑儒

Burning of books and burying of scholars
BC213年(坑儒はBC212年)
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝秦周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国シンハラBC213年(坑儒はBC212年)咸陽
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概要

実用書以外の書を焼き、儒者を穴に埋めたと伝えられる。記述の実態には議論がある。

場所

咸陽
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省

関わった人(1)

始皇帝BC259年–BC210年 · 当人

本文

秦の中国統一を果たした始皇帝は、各地を郡県に分けて役人に治めさせ、文字や度量衡をそろえた(度量衡と文字の統一)。周の時代のように一族や功臣を諸侯に封じることはしなかった。これに対して、昔のやり方に戻すべきだという声が、宮廷の学者たちの間に残っていた。

『史記』によれば、紀元前213年、咸陽の宮殿での酒宴の席で、博士の淳于越が、殷や周が長く続いたのは子弟や功臣を封じて支えとしたからだ、古に学ばずに長続きしたものは無い、と述べた。丞相の李斯はこれに真っ向から反論した。時代が変われば治め方も変わる。学者たちは今を学ばずに古を学び、それを持ち出して今の政治を謗り、民を惑わしている、というのである。

『帝鑑図説』に描かれている焚書坑儒の様相
『帝鑑図説』に描かれている焚書坑儒の様相Wikimedia Commons Anonymous 18th century Chinese painted album leaf; Bibliothèque nationale Paris Accedssion No Oe-5-RFol.-Oe-5a-fol. · Public domain

李斯の献策はこうだった。秦の記録以外の史書は焼く。博士の官が職務として持つもの以外、民間にある『詩』『書』と諸子百家の書は、役所に差し出させて焼く。『詩』『書』について語り合う者は市で処刑し、古を持ち出して今を批判する者は一族ごと罰する。命令から30日たっても焼かない者は、入れ墨をして城壁づくりの労役に送る。焼かずに残すのは、医薬、占い、農業と植樹の書だけで、法を学びたい者は役人を師とせよ、と。始皇帝はこれを認めた。

書を焼くという発想は、秦にとって初めてのものではない。『韓非子』は、かつて秦の改革を進めた商鞅が、孝公に『詩』『書』を焼いて法令を明らかにすることを説いたと伝えている(『韓非子』)。法と賞罰によって民を動かす法家の立場からすれば、昔の聖王の言葉を盾に今の法を論じる学問は、国の統一を乱すものだった。李斯は、その韓非と同じ荀子のもとで学んだ人物である。

『韓非子』に関わる図版:Hanfeizi or Han Feizi, Qing dynasty, Hunan Museum
『韓非子』Wikimedia Commons Huangdan2060 · Public domain

翌紀元前212年には、もう一つの事件が起きる。始皇帝は不老不死の薬を求めて方士(神仙の術者)を重んじていたが、そのうちの侯生と盧生が、皇帝は権勢をむさぼり刑罰で人を治めている、こんな者のために仙薬は探せない、と言って逃げた。怒った始皇帝は、咸陽にいる学者たちが妖言で民を惑わしていると取り調べさせた。学者たちが互いに罪を言い立てた末、禁を犯したとされた460人余りが、咸陽で穴に埋められたという。長男の扶蘇は、学者たちはみな孔子を手本としている、厳罰で臨めば天下が不安になる、と諫めたが、かえって北の辺境へ送られた。

この二つの事件が、のちに「焚書坑儒」とまとめて呼ばれるようになった。ただ、『史記』が埋められた人々を呼ぶ言葉は「諸生」で、方士も含めた学者全般を指しており、儒者だけが狙われたとは限らない。秦を倒した漢の時代には、秦の暴政を強調する語りが好まれた。賈誼の「過秦論」(賈誼「過秦論」)はその代表で、事件の規模や意味が後になって膨らんだ可能性は、多くの研究者が指摘している。

始皇帝の肖像(19世紀の絵)
始皇帝Wikimedia Commons Unknown (18??–18??) · Public domain

書物がどれほど失われたかも、焚書だけでは決まらない。博士の官のもとには書が残されていた。それが失われたのは、紀元前206年に項羽が咸陽に入り、宮殿を焼いたときだとする見方がある。民間でも書は隠された。秦の博士だった伏生は『書』を壁の中に塗り込めて守り、漢の初めに掘り出したが、残っていたのは29篇だったと伝えられる。

民間で書を持つことを禁じた法は、漢になっても残っていた。これが廃止されたのは紀元前191年、恵帝の時代である。焚書の命令から20年あまり、書を持つこと自体が罪になり得る時代が続いたことになる。前漢の時代には、孔子の旧宅の壁から古い文字で書かれた経書が見つかったという話もある。

漢は秦の法の仕組みの多くを引き継いだが、やがて儒学を国の学問に据えた(儒学の官学化)。そのとき、焚書を生き延びた本文や、記憶によって伝えられた本文のどれが正しいかが、経書をめぐる長い論争の種になった。権力が思想を統制した例として、焚書坑儒の名は2000年以上にわたって引き合いに出されてきた。

出典(1)

司馬遷 『史記』秦始皇本紀

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