陳勝・呉広の乱
概要
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」。中国史上最初の大規模な農民反乱で、秦は一気に崩れる。
本文
秦の中国統一から12年。始皇帝の秦は、文字や度量衡をそろえ、長城や宮殿、陵墓を造るために、全国から人を駆り出していた。紀元前210年、始皇帝が巡行の途中で死ぬと、宦官の趙高と丞相の李斯は遺言を偽って長子の扶蘇を自害させ、末子の胡亥を二世皇帝に立てた(趙高と二世皇帝)。二世皇帝のもとで、人々の負担はさらに重くなった。
紀元前209年の夏、900人の農民が北の辺境、漁陽の守備に向かうため引率されていた。途中の大沢郷で大雨に遭い、道が通れなくなった。期日に間に合わないことは明らかだった。引率の下で屯長を務めていたのが、陳勝と呉広である。陳勝は若いころ、人に雇われて畑を耕していた。仲間に、偉くなってもお互い忘れまい、と言って笑われ、「燕や雀に、大きな鳥の志が分かるものか」と嘆いたという話が『史記』に残る。
『史記』によれば、秦の法では期日に遅れれば斬首だった。陳勝は呉広と相談した。逃げても死、大きなことを企てても死。同じ死なら、国のために死のうではないか、と。ただし、1970年代に湖北省の睡虎地で見つかった秦の法律の竹簡では、労役の遅刻への罰は罰金程度だったことが分かっている。辺境の守備には別の規定があったのかもしれず、『史記』の記述をそのまま信じてよいかは議論がある。
二人は人心をつかむため、細工をした。「陳勝王」と赤い字で書いた絹を魚の腹に入れておき、それを買った兵士が驚くように仕向けた。夜には呉広が祠の陰で狐の声を真似て、「大楚興り、陳勝王たらん」と叫んだ。兵士たちの間で、陳勝を見る目が変わっていった。
機を見て、呉広はわざと引率の役人を怒らせ、剣を抜いた役人を陳勝とともに斬り殺した。陳勝は兵士たちを集めて言った。期日に遅れた以上、皆斬られる。たとえ斬られなくても、辺境の守備で死ぬ者は十に六、七いる。男子たるもの、死なないならそれまで、死ぬなら名を挙げて死ぬまでだ。「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」。王や諸侯、将軍や大臣に、生まれつきの血筋などあるものか、という意味である。
反乱軍は、民に人気のあった扶蘇と、秦に滅ぼされた楚の名将項燕の名を騙った。扶蘇はもう死んでいたが、人々はそれを知らなかった。木を切って武器にし、竿を立てて旗にした農民たちは、進むうちに数万に膨れ上がり、旧楚の都の陳を落とした。陳勝はここで王を名乗り、国号を張楚とした。
反乱はたちまち各地に広がった。陳勝は将軍たちを四方に送り、秦に滅ぼされた六国の旧王族や豪族も、次々に自ら兵を挙げた。陳勝が送った周文の軍は、数十万と号して秦の都の咸陽に迫り、その手前の戯まで達した。慌てた秦は、始皇帝の陵墓の工事に使っていた囚人や奴隷を武器を持たせて兵とし、将軍の章邯に率いさせて反撃した。周文の軍は破れた。
反乱軍の内側も崩れていった。各地へ送った将軍たちは、勝つとそのまま自分で王を名乗り、陳勝の命令を聞かなくなった。呉広は滎陽を攻めあぐねているうちに部下に殺された。陳勝自身も、身分が上がるにつれて昔の仲間を遠ざけた。かつての雇われ仲間が訪ねてきて、陳勝の貧しかったころの話を言いふらすと、王の威厳を損なうとして斬らせたという。それから、昔なじみはみな去ったと『史記』は書く。
紀元前208年の冬、章邯の軍に追われた陳勝は、逃げる途中で自分の御者に殺された。王を名乗ってから、わずか6か月だった。だが、陳勝が付けた火はもう消えなかった。会稽では項梁と甥の項羽が、沛では劉邦が兵を挙げていた。秦は紀元前206年に滅び、その後の争いは垓下の戦いで決着する。漢の高祖となった劉邦は、陳勝の墓を守る家を置いて祭らせた。
前漢の賈誼「過秦論」は、秦の滅亡を論じて、陳勝は身分も低く才能も並で、兵は木の棒を持った農民にすぎなかったのに、天下はこれに応じた、と書いた。秦が倒れたのは、仁義を施さなかったからだ、と。司馬遷は『史記』で、陳勝に諸侯の家の歴史を記す「世家」の巻を立て、湯王や武王の革命になぞらえて論じた。王の血も貴族の家柄も持たない者が、天下を揺るがした最初の例として、陳勝の名はのちの中国の反乱の歴史のはじめに置かれている。