できごと

城濮の戦い

Battle of Chengpu
BC632年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC632年の版図を描いています(17勢力)。

概要

19年放浪した晋の文公が、楚の軍に「三舎を退く」約束を守って90里退き、それから破った。春秋の覇者。周の天子を呼びつけて諸侯を集めた。孔子は「呼びつけた」を「狩りに行った」と書き直した。

場所

城濮
35.70°N 115.60°E · 中国・山東省鄄城

関わった人(1)

晋の文公BC697年–BC628年 · 晋の文公

本文

春秋時代の中ごろ、周の王はすでに名目だけの存在で、力のある諸侯が「覇者」として諸侯をまとめ、周王を立てる形をとっていた。最初の覇者は斉の桓公である(斉の桓公の覇)。桓公の死後、南の楚が勢いを伸ばし、黄河流域の国々を次々に従わせていった。これを押し返したのが、晋の文公と城濮の戦いである。

文公の名は重耳。晋の献公の子で、献公が寵愛する驪姫が自分の子を太子にしようとしたため、太子申生は追いつめられて自殺し、重耳も命を狙われて紀元前655年に国を出た。『史記』はこのとき43歳だったとするが、年齢には異説もある。そこから19年、母の出身である狄の地に12年、さらに衛、斉、曹、宋、鄭、楚、秦を渡り歩く放浪が続いた。

晋の文公、国に復帰する(李唐画『晋文公復国図』、1140年)
晋の文公Wikimedia Commons Attributed to Li Tang · Public domain

放浪の逸話は『春秋左氏伝』などに多く残る。衛で飢えて農夫に食べ物を乞うと、土くれを差し出された。重耳が怒ると、従者の狐偃(子犯)は「天が土地を授けたのです」と言って受け取らせたという。斉では桓公が娘を妻に与え、馬を二十乗ぶん贈った。重耳はそこに落ち着こうとしたが、妻の斉姜は従者たちと謀って夫を酔わせ、車に乗せて国の外へ送り出したと伝えられる。曹では、肋骨がつながっているという重耳の体を、曹の君主が入浴中にのぞいた。この無礼はのちに報いを受ける。

楚の成王は重耳を厚くもてなし、晋に戻れたらどう報いるかと尋ねた。重耳は、もし戦場で相まみえることがあれば、軍を三舎退こうと答えた。一舎は軍の一日の行程で30里、三舎で90里になる。最後に身を寄せた秦の穆公は重耳を支え、紀元前636年、秦の兵に守られて重耳は黄河を渡り、晋の君主となった。19年の放浪のあとである。

即位の翌年、周の襄王が弟の王子帯に追われて都を出ると、文公は兵を出して王を都に戻した。王を助ける者という名分を、文公はここで手に入れた。従者の介子推が恩賞にもれて母と山に隠れた話も、この時期のものである。のちに、文公が山を焼いて呼び出そうとし、介子推は出てこずに焼け死んだので、その日は火を使わない寒食の習わしになったと語られるが、山を焼く筋は後世の伝承で、『左伝』には見えない。

紀元前632年、楚が晋と結んだ宋を囲んだ。文公は宋を直接救わず、楚の側についていた曹と衛を攻めた。曹では君主を捕らえた。楚の将軍子玉(成得臣)は、宋の囲みを解くかわりに曹と衛を元に戻せと申し入れた。文公はひそかに曹と衛に復国を約束し、そのかわり楚と手を切らせた。面目を失った子玉は軍を北へ進めた。

ここで文公は軍を退かせた。三舎、90里である。楚の成王への約束を守るという名目だったが、自軍の士気を固め、敵を自分の選んだ戦場へ引き出す策でもあったと見られる。晋に斉・秦・宋が加わり、楚には陳・蔡の兵がついて、両軍は城濮で向きあった。夏4月のことである。

戦いは晋の両翼で決まった。晋の下軍は馬に虎の皮をかぶせて楚の右翼の陳・蔡の兵に突っこみ、これを崩した。上軍は退くふりをし、別の部隊が車の後ろに木の枝を引いて砂煙を上げ、晋軍が逃げているように見せた。追ってきた楚の左翼は、横から突かれて崩れた。子玉は中軍を動かさずに兵を収めたため全滅は免れたが、両翼を失って敗れた。帰国の途中、成王から責めの言葉を受けた子玉は自ら命を絶った。

翌5月、文公は践土に諸侯を集めて盟を結び、周の襄王がそこへ出向いて文公を諸侯の長と認めた。冬には温の地で会盟を開き、ここでも周王を来させた。臣下が王を呼びつけたことになる。孔子が手を入れたとされる『春秋』は、これを「天王、河陽に狩す」、つまり王が狩りに出かけたと書いた。『左伝』は、臣が君を呼ぶことは手本にできないので、孔子がこう書いたのだと説明している。

『論語』の成立には、晋の文公は策略を使って正しくなく、斉の桓公は正しくて策略を使わない、という孔子の評が残る。三舎退いて相手を誘い出し、同盟国を裏から切り崩した城濮の戦い方は、まさにその評にあてはまる。

『論語』の成立に関わる図版:Rongo Analects 02
『論語』の成立Wikimedia Commons Confucius and his disciples, · Public domain

文公は在位9年で、紀元前628年に死んだ。だが晋はその後も長く覇者の地位を保ち、楚との南北の対立が春秋時代の後半の骨組みになった。その晋も、やがて家臣の家に割られて消える(三家分晋(戦国時代の始まり))。「退避三舎」は、相手に一歩譲ることを言う成語として今も使われている。

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