周の穆王の西征(伝承)
概要
八頭の駿馬で西へ行き、崑崙で西王母と宴をした、と『穆天子伝』は語る。3世紀に魏の王の墓から出た竹簡。史実としては犬戎を討ち、徐の反乱を鎮め、55年在位した。中国で最初の「西への旅」の物語。
場所
34.23°N 108.75°E · 中国・陝西省西安南西(西周の都)
関わった人(1)
周の穆王王本文
周の穆王は、西周の第5代の王とされる。周公旦の摂政のころに固まった周の王朝が、建国から百年ほどたって、外へ向かって力を振るった時代の王である。『史記』の周本紀は、穆王が即位したときすでに50歳で、在位は55年だったと記す。そのまま数えれば百歳を超えて生きたことになり、そのまま信じることはできない。いまの研究では、穆王の在位は紀元前10世紀の半ばごろと考えられている。青銅器の銘文にも穆王の名が見え、実在した王であることは確かめられている。
穆王の事績として、古い書物が伝えるのはいくつかの遠征である。『国語』によれば、穆王が西北の遊牧の民である犬戎を討とうとしたとき、重臣の祭公謀父は、先代の王たちは徳を輝かせて人を従わせ、武力を見せびらかすことはしなかった、と諫めた。穆王は聞かずに出兵し、白い狼四頭と白い鹿四頭を得て帰ったが、それ以来、遠方の民は周に挨拶に来なくなった、と書かれている。武力で得たものが、かえって人心を離した、という教えの話である。『尚書』の「呂刑」も、穆王の時代に刑罰を定め、罪を銅で償わせることを認めた文書だと伝えられる。

穆王の名を後の世に広めたのは、それよりも、西方への長い旅の物語だった。279年か281年、西晋の時代に、汲郡にあった戦国時代の魏の王の墓が盗掘され、竹の札に書かれた大量の書物が見つかった。盗掘者は札を燃やして明かりにしたともいわれる。宮廷の学者荀勗らが残った札を整理し、そこから魏の年代記である『竹書紀年』とともに、穆王の旅を記した『穆天子伝』が読み出された。
『穆天子伝』によれば、穆王は、名馬の扱いに長けた造父に、赤驥、盗驪などと名付けられた八頭の駿馬の車を馭させ、西へ向かった。黄河の上流をさかのぼり、崑崙の山に登って伝説の帝王黄帝の宮殿を見、さらに西の果てで、瑤池のほとりに住む西王母に会って宴を開いた。西王母は、白い雲は空にあり、山や丘はおのずと現れる、道ははるかに遠く、山と川が隔てている、どうか死なずにまた来てほしい、という意の歌を贈った。穆王は、東の国に帰って諸国を治め、民が安らかになったら、三年で戻ってくる、と答えた。物語の中で、穆王が再び西へ行くことはない。
『史記』も、この旅を短く伝えている。穆王は西方を巡って楽しみ、帰るのを忘れたが、そのとき東方で徐の偃王が反乱を起こしたため、造父が一日に千里を駆けさせて王を連れ帰り、乱を平らげたという。造父はその功で趙の地を与えられ、のちの趙の国の祖となった。『史記』は、秦の王家も同じ祖先から出たと記す。戦国時代の趙と秦の王家は、どちらも王の車を馭した家を祖先と仰いでいたことになる。徐の偃王については、仁義を重んじて多くの国を従えたが、攻められると戦わずに国を失った、と『韓非子』が語り、仁義は昔には通じても今には通じない、と結論している。ただしこちらの話は、相手を楚の王とするなど時代が合わず、伝承の寄せ集めと見られている。
『穆天子伝』が歴史の記録なのか、物語なのかは、古くから論じられてきた。日付や道のりが細かく記され、地名や部族の名が並ぶため、実際の旅の記録をもとにしているとする見方もある。一方、黄帝の宮殿や西王母が登場する点は明らかに伝説であり、戦国時代の魏の人々が、昔の王の旅に託して西方の世界を描いた作品と考える人が多い。穆王がどこまで行ったのかについても、いまの甘粛や青海のあたりとする説から、新疆や中央アジアまでとする説まで、大きく分かれている。西王母も、のちには不老不死の仙女として描かれるが、古くは西方の異族の首長、あるいは半ば獣の姿をした神とされていた。
確かなのは、この物語が、中国で最初の「西への旅」の物語になったことである。馬に乗って西の果てへ行き、そこで不思議な女王に会う、という筋は、後の時代の人々の想像をかき立て続けた。西方の名馬への憧れは、八百年あまり後、漢の武帝が汗血馬を求めて兵を送る遠征にもつながっていく(大宛遠征(汗血馬))。唐の詩人李商隠らは、穆王と西王母の再会の約束を、果たされない約束の例として詠んだ。そして玄奘の西域行を経て、明の時代の『西遊記』に至るまで、西へ向かう旅は、中国の物語の大きな流れの一つになっていった。穆王の旅は、その最初に置かれている。