人物

勾践

Goujian
? – BC465年
越重要度 3

概要

呉に負けて三年仕え、帰ってから胆を嘗めて恥を忘れず、二十年で呉を滅ぼした。功臣の范蠡は「狡兎死して走狗煮らる」と言って去り、残った文種は死を賜った。

関わったできごと(1)

越が呉を滅ぼすBC473年 · 越王

本文

越は会稽(いまの浙江省紹興)を都とする長江下流の南の国で、中原の諸侯からは蛮夷と見られていた。『史記』は、越の人は髪を短く切り、体に入れ墨をしていたと書く。隣の呉とは、同じ地方で覇を争う宿敵だった。勾践はこの越の王・允常の子で、生年は分からない。

『東周列国志』の挿絵に描かれた勾践
『東周列国志』の挿絵に描かれた勾践Wikimedia Commons 清蔡奡評點 · Public domain

呉と越の争いは、勾践の即位の年に火を噴いた。BC496年、父の死に乗じて呉王闔閭が攻めてくると、勾践は檇李(すいり)で迎え撃った。『春秋左氏伝』によれば、彼は死刑囚を三列に並べて呉の陣の前に進ませ、囚人たちに自分の首をはねさせた。呉の兵が呆然と見とれているところを越軍が襲い、大勝した。闔閭は戦いで足の指を傷つけ、その傷がもとで死んだ。孫武(孫子)と伍子胥を用いて呉を強国に育てた王の、あっけない最期だった。

闔閭の子の夫差は、父の仇を忘れまいと誓った。「越王がお前の父を殺したことを忘れたか」と人に言わせ続けたと伝わる。BC494年、夫差は夫椒で越軍を破り、勾践はわずかな兵とともに会稽山に追い詰められた。ここで勾践は、重臣の文種を呉の宰相・伯嚭のもとへ送り、賄賂を贈って和を乞うた。伍子胥はいま越を滅ぼさなければ後悔すると強く反対したが、夫差は降伏を受け入れた。

降伏のあと、勾践は范蠡を伴って呉に入り、夫差に臣下として仕えたとされる。馬の世話をし、夫差が病んだときにはその便を嘗めて病の行方を占い、「快方に向かわれる」と言って信頼を得た、という話も伝わる。ただしこうした屈辱の場面の多くは、後漢の『呉越春秋』などの後代の書に描かれたもので、どこまでが史実かは分からない。

国へ帰された勾践は、恥を忘れないために、座る場所に獣の胆を吊るし、寝ても覚めてもそれを仰ぎ、食事のたびに嘗めた。『史記』は、胆を嘗めるたびに「お前は会稽の恥を忘れたか」と自分に言い聞かせた、と書く。のちに薪の上に寝た夫差の話と合わせて「臥薪嘗胆」という言葉になったが、この組み合わせは後世のものである。勾践は自ら畑を耕し、夫人は機を織り、肉を食べず、色のついた服を着なかった。民とともに働き、死者を弔い、子の生まれた家には酒と犬や豚を贈って、人口を増やすことに努めた。

伍子胥は、越が「十年かけて民を増やし財を蓄え、十年かけて民を教え鍛える」だろうと警告した。夫差は聞かず、北へ兵を出して斉を破り、中原の覇者になることに心を奪われていった。越は呉に貢ぎ物を絶やさず、呉の重臣に取り入った。BC484年、夫差は諫め続ける伍子胥に剣を与えて自害させた。

機会はBC482年に来た。夫差が精兵を率いて北の黄池に赴き、晋と覇者の座を争っているすきに、勾践は呉の都を襲い、留守を守る太子を殺した。夫差は急いで和を結んだが、呉の力はこのとき大きく削がれた。その後も越は攻撃を重ね、BC473年、ついに呉の都・姑蘇を落とした(越が呉を滅ぼす)。勾践は夫差を辺地に移して命は助けようとしたが、夫差は「伍子胥に合わせる顔がない」と言って顔を布で覆い、自ら命を絶ったと伝えられる。

勾践は兵を北へ進め、徐州で斉や晋などの諸侯と会盟した。周の王は彼に覇者の地位を認める使いを送った。斉の桓公の覇に始まる春秋の覇者の系譜は、南の「蛮夷」の王で終わることになる。数え方には諸説あるが、勾践は春秋時代の最後の覇者とされる。

勝利のあと、二人の功臣の運命は分かれた。范蠡は勾践のもとを去り、残った文種に手紙を送った。「飛ぶ鳥が尽きれば良い弓はしまわれ、すばしこい兎が死ねば猟犬は煮られる。越王は首が長く口がとがっている。苦しみは共にできても、楽しみは共にできない人だ。なぜ去らないのか」。文種は病と称して朝廷に出なくなったが、讒言を受け、勾践から剣を贈られた。「あなたは呉を討つ七つの策を教えてくれた。私はそのうち三つを使って呉を破った。残る四つはあなたの手にある。先王のもとへ行って、それを試してほしい」。文種は自害した。范蠡は斉へ移って財を成し、のちに陶の地で「陶朱公」と名乗る大富豪になったと『史記』は伝える。後世、范蠡と美女・西施の物語が生まれるが、これは伝説である。

勾践はBC465年に死んだ。越はその後もしばらく長江下流の強国だったが、やがて楚に敗れて衰えた。その時期はBC4世紀の後半とされ、BC334年説やBC306年説などがある。

1965年、湖北省江陵の楚の墓から、一振りの青銅の剣が出土した。刃には「越王鳩浅自作用剣(越王勾践が自ら用いるために作った剣)」と鳥のような文字で刻まれ、2000年以上を経ても錆が少なく、刃の鋭さを残していた。越を滅ぼした楚が、戦利品として持ち帰ったものだと考えられている。

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