孫武(孫子)
概要
斉の人で呉に仕え、王の寵姫を斬って軍を整えたと『史記』にある。実在を疑う説は長くあった。1972年に山東の漢墓から竹簡が出て、『孫子』と孫臏の兵法が別の本だと分かった。
所属
呉関わったできごと(2)
『孫子』の兵法BC512年頃 · 著者と伝わる柏挙の戦いBC506年 · 軍師本文
孫武について確かなことは、ほとんど分からない。名が広く知られているのは、彼の書いたとされる兵法書『孫子』のためである(『孫子』の兵法)。その人物について最もまとまった話を伝えるのは、前漢の司馬遷が書いた『史記』の孫子呉起列伝だが、そこに書かれている逸話も、ほぼ一つしかない。

『史記』によれば、孫武は東方の大国、斉の人だった。時代は春秋時代の終わり、BC6世紀の末である(春秋の争覇と鉄製農具)。周の王の権威は衰え、諸侯の国々が互いに争っていた。長江の下流には、新しく力をつけてきた呉の国があり、西の大国楚と激しく争っていた。孫武は自分の兵法13篇を携えて、呉の王闔閭のもとを訪れた。
闔閭は言った。あなたの13篇はすべて読んだ。試しに兵を動かしてみせてくれないか。女でもできるか。できます、と孫武は答えた。王は宮中の美女180人を集めさせた。孫武は彼女たちを二つの隊に分け、王が最も寵愛する二人の姫をそれぞれの隊長にした。全員に戟を持たせ、前、後ろ、右、左の号令の意味を説明し、何度も繰り返して念を押した。

太鼓を打って、右、と号令をかけた。女たちはどっと笑った。孫武は言った。決まりがはっきりせず、号令が行き渡らないのは、将の罪である。そこでもう一度、何度も説明を繰り返し、太鼓を打って、左、と号令した。女たちはまた笑った。孫武は言った。決まりがはっきりしているのに従わないのは、隊長の罪である。そして二人の隊長を斬ろうとした。
台の上から見ていた王は驚き、使いを送った。私はもう将軍の腕前はよく分かった。その二人がいなければ、食べ物の味も分からなくなる。どうか斬らないでくれ。孫武は答えた。臣はすでに命を受けて将となりました。将が軍にあるときは、君命であっても受けないことがあります。そして二人を斬り、次に寵愛されている者を隊長にした。再び太鼓を打つと、女たちは前後左右、立つも座るも、号令どおりに寸分違わず動き、声を立てる者もいなかった。

孫武は王に、兵はすでに整いました、水の中でも火の中でも、王の望むところへ行かせられます、と告げた。王は不機嫌に、もうよい、宿舎で休め、と言った。孫武は言った。王は兵法の言葉を好まれるだけで、それを実際に用いることはおできにならない。闔閭はここで、孫武が兵を用いる才を知り、彼を将軍にした、と『史記』は書く。
その後のことについて、『史記』は短く記すだけである。呉は西の強国楚を破ってその都の郢に入り、北では斉と晋を威圧して、諸侯の間に名を轟かせた。孫子はその力にあずかった、と。BC506年、呉が楚を大敗させた柏挙の戦いのことである(柏挙の戦い)。この戦いで呉の軍を動かした中心人物として、歴史書は楚から亡命してきた伍子胥の名を大きく伝えている。孫武がいつ生まれ、どこでどう死んだのか、『史記』には何も書かれていない。
そのため、孫武は本当にいたのか、という疑いが古くからあった。春秋時代の出来事を詳しく記した『春秋左氏伝』は、柏挙の戦いを詳しく描きながら、孫武の名を一度も出さない。宋の時代以降、学者たちは、孫武は後世に作られた人物ではないか、13篇は戦国時代に誰かが書いたものではないか、と論じた。『孫子』は、数十万の大軍が長く戦うことを前提にしたような書き方をしていて、春秋時代の戦争の規模に合わないともいわれた。さらに『史記』には、孫武の子孫で、100年あまり後の戦国時代に斉の軍師として活躍した孫臏という人物も登場する。いま伝わる『孫子』は、実は孫臏が書いたものではないか、という説まであった。
その議論に一つの決着をつけたのが、1972年の発見である。山東省臨沂の銀雀山で、前漢の初めの墓が二つ掘り出され、大量の竹簡が見つかった。その中に、いま伝わる『孫子』13篇とほぼ同じ内容の書物と、それとは別の、これまで失われていた兵法書が含まれていた。後者は孫臏の兵法だった。二人の孫子がいて、それぞれの兵法書があったという『史記』の記述が、2000年以上の時を経て裏づけられたのである。
ただし、これで孫武という人物の実在が証明されたわけではない。分かったのは、前漢の初めまでに『孫子』13篇が孫臏の兵法とは別の書として存在していたことである。13篇が孫武一人の手になるものか、彼の名のもとで長い時間をかけて書き継がれたものかは、今も議論が続いている。
人物は霧の中でも、本は残った。『孫子』は、戦いをただ勇気や運の問題とせず、冷静な計算と情報の問題として論じた。敵を知り己を知れば、百戦しても危うくない。百戦百勝は最善ではなく、戦わずに敵を屈服させるのが最善である。戦争は国の存亡に関わる大事であり、軽々しく始めてはならない。兵は詭道、つまり敵を欺く道である、とも説いた。
三国時代の曹操は『孫子』に注釈を付けた。現在に伝わる最も古い注釈で、13篇という形もこのころに整えられたと考えられている。日本にも古くから伝わり、戦国時代の武田信玄が旗に掲げた「風林火山」の言葉も、『孫子』の一節から取られている。18世紀にはフランス語に訳されてヨーロッパにも知られ、いまでは軍事だけでなく、経営や交渉の書としても世界中で読まれている。