呂不韋の摂政
概要
人質だった王子に投資した商人が、その子が13歳で王になると相国として国を動かした。3000人の食客に『呂氏春秋』を編ませ、王が成人すると追われて自死する。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
呂不韋?–BC235年 · 相国本文
戦国時代の末、呂不韋は各地を回って安く買い、高く売る大商人だった。『史記』は韓の陽翟の人とし、『戦国策』は衛の濮陽の人とする。趙の都邯鄲で商いをしていたとき、秦から人質に出されている王子の子楚(もとの名は異人)を見かけた。秦の太子の安国君には20人あまりの子がいたが、子楚はその中で母の身分も低く、秦と趙が戦うたびに命を危うくする、忘れられた王子だった。
呂不韋は「これは奇貨だ、買っておくべきだ」と言ったと『史記』は伝える。父に、田を耕せば何倍の儲けか、宝玉なら何倍か、国の主を立てれば何倍かと尋ね、限りが無いと聞いて心を決めたという話も残る。財産の半分を子楚に渡して交際の費用にさせ、残りで珍しい品を買って秦へ行き、子の無い安国君の正妃、華陽夫人に取り入った。子楚を養子に迎えれば、年老いても頼る者ができる。夫人は動き、子楚は跡継ぎに定められた。

呂不韋は、自分の愛妾で舞の上手な女を子楚に与えた。紀元前259年、邯鄲で男の子が生まれる。名は政、のちの始皇帝になる。『史記』の呂不韋の伝は、女はこのとき既に呂不韋の子を身ごもっていたと書く。一方、同じ『史記』の始皇帝の本紀は、ただ荘襄王の子として記す。司馬遷がなぜ食い違う書き方を残したのかも含めて、実の父をめぐる話は決着がつかない。秦を憎んだ後世の人々が広めた中傷とみる研究者も多い。
紀元前251年に昭襄王が死に、安国君が孝文王として立ったが、即位の儀を終えてまもなく死んだ。子楚が荘襄王となり、呂不韋は丞相に任じられ、文信侯として洛陽の10万戸を与えられた。商人が、大国の宰相になった。荘襄王もわずか3年で世を去り、紀元前247年、13歳の政が王位を継ぐ。

幼い王のもとで、呂不韋は相国として政治を握り、王から「仲父(父に次ぐ人)」と呼ばれた。この間も秦の東への進出は止まらず、韓や魏から城を取り続けた。関中の平野を潤す鄭国渠の工事が始まったのも、この時期になる。のちに始皇帝を支える李斯も、はじめは呂不韋の家に仕える舎人として秦に入った。
呂不韋は、斉や趙や楚の王族が多くの食客を抱えて名声を集めるのを見て、自分も3000人の食客を養った。彼らに見聞きしたことを書かせ、天地万物と古今の事を一冊に集めさせた。それが『呂氏春秋』で、儒家、道家、墨家、法家、陰陽家の説を取り混ぜ、季節ごとの政治のあり方まで説いている。都の咸陽の市の門にこれを並べ、一字でも足すか削るかできる者には千金を与えると触れを出した。「一字千金」の語はここから出た。一年を十二の月に分け、それぞれの月に王が何を着て、何を食べ、どんな政をすべきかを定めた部分は、天の運行に人の世を合わせるという考え方をよく示している。法と賞罰だけで国を動かそうとする法家の考えとは、肌合いが違う。成長した王が深く傾倒したのは、のちに『韓非子』を著す韓非の説のほうだった。

だが王が成長すると、呂不韋の立場は危うくなる。太后、つまり王の母はなお呂不韋と通じていた。発覚を恐れた呂不韋は、嫪毐という男を宦官と偽って後宮に送り込み、太后の相手にさせた。嫪毐は太后との間に二人の子をもうけ、長信侯として権勢をふるうまでになった。紀元前238年、成人の儀を迎えた王に対して嫪毐が兵を挙げ、鎮圧されて一族ともども処刑された。
事件は呂不韋に及んだ。功績を理由にすぐには殺されなかったが、翌年、相国を免じられて領地の洛陽へ退いた。それでも諸侯の使者が引きも切らず訪ねてくる。王は書を送り、そなたは秦に何の功があって10万戸を食むのか、一族を連れて蜀へ移れ、と命じた。紀元前235年、呂不韋は誅されることを恐れて毒を飲んだ。
王子に投資して国を買った商人の話は、『史記』の中でもとりわけ劇的に語られ、どこまでが事実かを見分けるのは難しい。確かなのは、この男の時代を経て成長した王が、わずか14年後に秦の中国統一を成し遂げたことになる。その秦は、王の死後に宮中の陰謀からあっけなく崩れる(趙高と二世皇帝)。