趙高と二世皇帝
概要
始皇帝が巡行中に死ぬと、宦官と丞相が遺詔を書き換え、長子を自殺させて末子を立てた。鹿を馬と言わせて臣下を試したのがこの宦官になる。3年で秦は終わった。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(2)
趙高?–BC207年 · 宦官李斯?–BC208年 · 加担し、のちに処刑される本文
秦の中国統一を成し遂げた始皇帝(始皇帝)は、天下を自分の目で確かめるように、各地への巡行を繰り返した。紀元前210年、五度目の巡行には、丞相の李斯、車馬と皇帝の印を預かる役にあった趙高、そして20人以上いた皇子の中で末に近い胡亥が従っていた。胡亥は趙高から法律を学んでおり、自分も連れて行ってほしいと願い出て許された。
巡行の途中で皇帝は病に倒れた。死を口にされることを嫌った皇帝に、臣下たちは誰も後のことを尋ねられなかった。病が重くなると、皇帝は北の国境で長城の守りについていた長子の扶蘇に手紙を書いた。兵を蒙恬に預けて咸陽に戻り、葬儀を執り行え、という内容だった。扶蘇は、学者たちを生き埋めにした始皇帝をいさめたために(焚書坑儒)、北方へ送られていた。だがこの手紙は使者に渡される前に、趙高の手元で止まった。その年の夏、皇帝は沙丘の離宮で亡くなった。49歳だった。

皇帝の死を知っていたのは、胡亥と李斯と趙高、それに側近の宦官数人だけだった。趙高はまず胡亥を説いた。扶蘇が帝位に就けば、あなたは一寸の土地も持てない。胡亥はためらったが、やがて同意した。次に趙高は李斯を説いた。扶蘇が即位すれば、信頼する蒙恬を丞相にするだろう。あなたの功績と才能は、蒙恬に及ぶのか。最後には、あなたは官を退いて故郷に帰ることもできず、一族に禍が及ぶ、と迫った。李斯は天を仰いで嘆き、従ったと『史記』は描く。
三人は、皇帝の遺詔を偽って胡亥を太子に立て、扶蘇と蒙恬には、別の偽の詔を送った。父を誹り、功もなく、不孝である、自ら死ね。蒙恬は、これは偽りかもしれない、確かめてからでも遅くない、と止めたが、扶蘇は、父が子に死を命じたのなら、なぜ確かめる必要があろうか、と言って自ら命を絶った。蒙恬は従わずに捕らえられ、のちに毒を仰いだ。
皇帝の死は伏せられたまま、一行は都へ向かった。遺体は窓のついた車に乗せられ、食事は毎日いつもどおり運び込まれ、役人の上奏にも車の中から裁可が下された。季節は夏で、遺体が腐り、においが漂いはじめた。趙高たちは、においの強い塩漬けの魚を一石ずつ車に積ませ、ごまかしたという。咸陽に着いてから喪が発せられ、胡亥が二世皇帝として即位した。21歳だったとされる。
二世皇帝は、帝位を奪ったことを兄弟や重臣に疑われるのを恐れた。趙高は、法を厳しくし、疑わしい者を除くように勧めた。12人の皇子が咸陽の市で処刑され、10人の皇女も殺された。大臣たちも次々と罪を着せられた。始皇帝の陵墓(兵馬俑)と阿房宮の工事は続けられ、民の負担はさらに重くなった。

紀元前209年、北の国境の守りに向かう途中で大雨に遭い、期日に遅れて死罪になることを恐れた農民の陳勝と呉広が反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。反乱はたちまち各地に広がり、滅ぼされた六国の王族や、項羽、劉邦といった人々が次々と兵を挙げた。
趙高は、反乱の報せが皇帝の耳に入らないようにし、自分の邪魔になる李斯を陥れた。李斯は謀反の罪を着せられて拷問を受け、紀元前208年、咸陽の市で腰斬の刑に処された。刑場へ引かれていくとき、息子を振り返って、お前と黄色い犬を連れて故郷の上蔡の東門を出て兎を追いたかったが、もうかなわない、と言ったと『史記』は伝える。
丞相となった趙高は、自分に逆らう者がいるかを試すため、二世皇帝の前に鹿を引いてきて、馬でございます、と言った。皇帝は笑って、鹿ではないか、と言った。左右の臣下に尋ねると、黙る者、馬だと言って趙高に従う者、鹿だと答える者がいた。趙高は、鹿だと答えた者たちを、のちに密かに罪に陥れた。「鹿を指して馬となす」という言葉のもとになった話で、俗に「馬鹿」の語源とも言われる。
紀元前207年、反乱軍が都に迫ると、趙高は責任を問われることを恐れ、娘婿に兵を率いさせて二世皇帝を宮殿に襲わせ、自害に追い込んだ。そして始皇帝の孫ともいわれる子嬰を立てた。だがもはや天下を治める力はなく、帝を名乗らず秦王と称させた。子嬰は即位の儀の前に趙高を誘い出して刺し殺し、その一族を滅ぼした。それから46日後、劉邦の軍が咸陽に入り、子嬰は降伏した。統一からわずか15年で、秦は滅んだ。
この話の大半は、漢の時代に司馬遷が書いた『史記』による。秦を倒した漢の側から書かれた歴史であり、どこまで事実かを疑う見方もある。趙高が本当に去勢された宦官だったのかも、研究者のあいだで議論がある。近年、北京大学が入手した漢代の竹簡『趙正書』には、始皇帝が死の床で胡亥を後継に認めたとも読める話が書かれていて、『史記』とは違う伝えがあったことが分かった。ただし、そちらも物語の性格が強く、どちらが事実に近いかは決められていない。13歳の政が王位に就き、商人あがりの相国が国を動かしはじめた紀元前247年(呂不韋の摂政)から数えても、40年あまりの出来事だった。