できごと

柏挙の戦い

Battle of Boju
BC506年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア原アルタイ系の牧畜民カラスク文化チベット系諸集団イラン系の牧畜民ヴェーダ期のアーリヤ人オーストロアジア系の稲作民中華系の人びとZhoaオーストロネシア系の人びとドラヴィダ系の人びとビルマ系の人びと縄文後期Wuアイヌ朝鮮半島の先住集団BC506年柏挙(麻城)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC506年の版図を描いています(18勢力)。

概要

呉王闔閭が孫武と伍子胥を使い、3万で楚の20万を破り、都の郢に入った。伍子胥は父と兄を殺した平王の墓を暴いて屍を300回鞭打った。秦が楚を助けて呉は帰った。『孫子』の著者が実際に戦ったとされる唯一の戦い。

場所

柏挙(麻城)
31.17°N 115.02°E · 中国・湖北省

関わった人(2)

孫武(孫子)軍師伍子胥?–BC484年 · 復讐

本文

紀元前6世紀の中国は、周の王の力が衰え、諸侯が覇を競う春秋時代の後半にあった(春秋の争覇と鉄製農具)。長江の中流には、南方の大国である楚がそびえていた。その下流、いまの江蘇のあたりに、新しく力を伸ばしてきたのが呉である。呉はもとは中原の諸国から辺境の国と見られていたが、紀元前6世紀の末、王の闔閭のもとで急速に強くなっていった。

闔閭のそばには、楚から亡命してきた一人の男がいた。伍子胥である。伍子胥の父の伍奢は楚の太子の守り役だったが、楚の平王が讒言を信じたため、父と兄はともに殺された。伍子胥はただ一人、追手を逃れて国を出た。国境の関所を越えるときの苦心は、のちに一晩で髪が白くなったという物語にまでふくらんだ。呉にたどり着いた伍子胥は、闔閭が王位に就くのを助けて重用され、楚への復讐を胸に呉の国づくりを進めた。

鳥取県湯梨浜町燕趙園の孫武(孫子)像
孫武(孫子)Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

『史記』によれば、伍子胥は闔閭に、斉の国から来た兵法家を推した。それが孫武(孫子)、孫武である。孫武が闔閭の宮中の女官たちを使って兵の動かし方を見せ、命令に従わず笑った王の寵姫二人を斬って、軍の規律を示した、という話はよく知られる。ただし、孫武の事績を伝えるのは主に『史記』とそれ以後の書物で、より古い史料である『春秋左氏伝』には孫武の名が出てこない。そのため、孫武の実在や、どこまでこの戦いに関わったのかについては議論がある。

呉は数年にわたって楚の辺境を繰り返し襲い、楚の軍を疲れさせた。そして紀元前506年、決戦の機会が来た。楚の宰相の子常(囊瓦)は欲深く、楚を訪ねた小国の蔡と唐の君主から宝物を求め、拒まれると何年も彼らを抑留した。ようやく解放された蔡の君主は楚を恨み、呉に助けを求めた。呉は蔡、唐と組んで楚に攻め込んだ。呉の軍は船を降り、淮水の流域から陸路で楚の東の守りを抜けて、漢水のほとりにまで達した。

伍子胥
伍子胥Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

楚の軍は漢水をはさんで呉軍と向き合った。楚の将の一人は、自分が呉軍の背後に回って舟を焼き、退路を断つから、それまで子常は川を渡らずに待て、という策を立てた。しかし子常は手柄を独り占めしようと、待たずに川を渡って攻めかかった。呉軍は退きながら戦い、柏挙で両軍がぶつかった。闔閭の弟の夫概は、王の許しを待たず、自分の手勢5000人で子常の陣に突っ込んだ。楚軍は崩れ、子常は戦場を捨てて北の鄭へ逃げた。呉軍は逃げる楚軍を追い、川を渡ろうとするところを襲い、食事の支度をしているところを襲って、立て続けに打ち破った。兵力については、呉が3万、楚が20万とする後世の書物もあるが、確かな数は分からない。

呉の軍は楚の都の郢に入った。楚の昭王は都を捨てて逃げ、南の雲夢の沢をさまよった末に、北の随の国へかくまわれた。『史記』によれば、伍子胥は昭王を捕らえることができず、父と兄を殺した平王の墓を暴いて、その屍を引き出し、300回鞭で打って恨みを晴らしたという。ここから、死んだ者をさらに辱めることを「死屍に鞭打つ」と言うようになった。

麻城を含む地図(米陸軍地図局、1953年)
麻城を含む地図(米陸軍地図局、1953年)Wikimedia Commons Army Map Service , Corps of Engineers · Public domain

楚の臣の申包胥は、かつて伍子胥の友だった。国を出る伍子胥に「必ず楚を滅ぼす」と言われ、「ならば私は必ず楚を守る」と答えた人物である。申包胥は西の大国秦へ走り、援軍を求めた。秦の宮廷の庭に立ったまま、7日7晩、水も口にせずに泣き続けたと伝えられる。その姿に心を動かされた秦は兵を出した。申包胥が使いを送って伍子胥のやり方を責めると、伍子胥は「日は暮れたが道はまだ遠い。だから道理にそむいてでも急いだのだ」と答えたという。「日暮れて道遠し」の言葉の由来である。

秦の援軍が来ると、楚の残った兵も盛り返した。さらに呉の本国では、手柄を立てた夫概が、王の留守を狙って勝手に帰り、王を名乗った。南の越も呉の留守を突いて攻め込んできた。闔閭は郢を捨てて呉へ帰らざるを得なかった。楚は都を取り戻したが、大国の都が落とされた衝撃は大きく、楚はしばらく都を北へ移すことになる。

柏挙の戦いは、少ない兵で大国の都まで攻め入った、春秋時代でも名高い勝利である。孫武がこの戦いを指揮したと『史記』が伝えていることから、『孫子』の作者が実際に戦った戦いとしても語られてきた(『孫子』の兵法)。しかし勝利は長く続かなかった。闔閭はその後、越の王勾践との戦いで傷を負って死ぬ。伍子胥も、闔閭の子の夫差に疎まれて自害を命じられることになる。

同じ時代のできごと

マハーヴィーラの教えBC6〜BC5世紀カンビュセスのエジプト征服BC525年『孫子』の兵法BC512年頃ダレイオスのスキタイ遠征BC513年タルクィニウスの追放(王政の廃止)BC509年(伝承)クレイステネスの改革BC508年ゲルBC500年頃ペルシアの駅伝BC500年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC506年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →