柏挙の戦い
概要
呉王闔閭が孫武と伍子胥を使い、3万で楚の20万を破り、都の郢に入った。伍子胥は父と兄を殺した平王の墓を暴いて屍を300回鞭打った。秦が楚を助けて呉は帰った。『孫子』の著者が実際に戦ったとされる唯一の戦い。
場所
31.17°N 115.02°E · 中国・湖北省
関わった人(2)
孫武(孫子)軍師伍子胥?–BC484年 · 復讐本文
紀元前6世紀の中国は、周の王の力が衰え、諸侯が覇を競う春秋時代の後半にあった(春秋の争覇と鉄製農具)。長江の中流には、南方の大国である楚がそびえていた。その下流、いまの江蘇のあたりに、新しく力を伸ばしてきたのが呉である。呉はもとは中原の諸国から辺境の国と見られていたが、紀元前6世紀の末、王の闔閭のもとで急速に強くなっていった。
闔閭のそばには、楚から亡命してきた一人の男がいた。伍子胥である。伍子胥の父の伍奢は楚の太子の守り役だったが、楚の平王が讒言を信じたため、父と兄はともに殺された。伍子胥はただ一人、追手を逃れて国を出た。国境の関所を越えるときの苦心は、のちに一晩で髪が白くなったという物語にまでふくらんだ。呉にたどり着いた伍子胥は、闔閭が王位に就くのを助けて重用され、楚への復讐を胸に呉の国づくりを進めた。

『史記』によれば、伍子胥は闔閭に、斉の国から来た兵法家を推した。それが孫武(孫子)、孫武である。孫武が闔閭の宮中の女官たちを使って兵の動かし方を見せ、命令に従わず笑った王の寵姫二人を斬って、軍の規律を示した、という話はよく知られる。ただし、孫武の事績を伝えるのは主に『史記』とそれ以後の書物で、より古い史料である『春秋左氏伝』には孫武の名が出てこない。そのため、孫武の実在や、どこまでこの戦いに関わったのかについては議論がある。
呉は数年にわたって楚の辺境を繰り返し襲い、楚の軍を疲れさせた。そして紀元前506年、決戦の機会が来た。楚の宰相の子常(囊瓦)は欲深く、楚を訪ねた小国の蔡と唐の君主から宝物を求め、拒まれると何年も彼らを抑留した。ようやく解放された蔡の君主は楚を恨み、呉に助けを求めた。呉は蔡、唐と組んで楚に攻め込んだ。呉の軍は船を降り、淮水の流域から陸路で楚の東の守りを抜けて、漢水のほとりにまで達した。

楚の軍は漢水をはさんで呉軍と向き合った。楚の将の一人は、自分が呉軍の背後に回って舟を焼き、退路を断つから、それまで子常は川を渡らずに待て、という策を立てた。しかし子常は手柄を独り占めしようと、待たずに川を渡って攻めかかった。呉軍は退きながら戦い、柏挙で両軍がぶつかった。闔閭の弟の夫概は、王の許しを待たず、自分の手勢5000人で子常の陣に突っ込んだ。楚軍は崩れ、子常は戦場を捨てて北の鄭へ逃げた。呉軍は逃げる楚軍を追い、川を渡ろうとするところを襲い、食事の支度をしているところを襲って、立て続けに打ち破った。兵力については、呉が3万、楚が20万とする後世の書物もあるが、確かな数は分からない。
呉の軍は楚の都の郢に入った。楚の昭王は都を捨てて逃げ、南の雲夢の沢をさまよった末に、北の随の国へかくまわれた。『史記』によれば、伍子胥は昭王を捕らえることができず、父と兄を殺した平王の墓を暴いて、その屍を引き出し、300回鞭で打って恨みを晴らしたという。ここから、死んだ者をさらに辱めることを「死屍に鞭打つ」と言うようになった。

楚の臣の申包胥は、かつて伍子胥の友だった。国を出る伍子胥に「必ず楚を滅ぼす」と言われ、「ならば私は必ず楚を守る」と答えた人物である。申包胥は西の大国秦へ走り、援軍を求めた。秦の宮廷の庭に立ったまま、7日7晩、水も口にせずに泣き続けたと伝えられる。その姿に心を動かされた秦は兵を出した。申包胥が使いを送って伍子胥のやり方を責めると、伍子胥は「日は暮れたが道はまだ遠い。だから道理にそむいてでも急いだのだ」と答えたという。「日暮れて道遠し」の言葉の由来である。
秦の援軍が来ると、楚の残った兵も盛り返した。さらに呉の本国では、手柄を立てた夫概が、王の留守を狙って勝手に帰り、王を名乗った。南の越も呉の留守を突いて攻め込んできた。闔閭は郢を捨てて呉へ帰らざるを得なかった。楚は都を取り戻したが、大国の都が落とされた衝撃は大きく、楚はしばらく都を北へ移すことになる。
柏挙の戦いは、少ない兵で大国の都まで攻め入った、春秋時代でも名高い勝利である。孫武がこの戦いを指揮したと『史記』が伝えていることから、『孫子』の作者が実際に戦った戦いとしても語られてきた(『孫子』の兵法)。しかし勝利は長く続かなかった。闔閭はその後、越の王勾践との戦いで傷を負って死ぬ。伍子胥も、闔閭の子の夫差に疎まれて自害を命じられることになる。