概要
晋と楚に挟まれた小国の宰相。法を鼎に鋳て公開し、田を整え、外交で国を保った。孔子が「古の遺愛なり」と言って泣いたと伝わる。
関わったできごと(1)
子産の刑鼎BC536年 · 宰相本文
公孫僑、字は子産。鄭の穆公の孫にあたる。
父の子国が反乱で殺されたとき、 まだ若い子産は、家の門を閉じて守りを固め、 父の遺体を収めてから、反乱を鎮めに出た。 慌てなかったことで名が知られた。
BC543年に宰相になった。 最初の一年、人々は歌った。 「わが衣冠を取り上げ、わが田を取り上げた。子産を殺す者があれば、私は加わる」。 三年後に歌が変わった。 「わが子弟を教え、わが田を殖やした。子産が死んだら、誰が継ぐのか」。
晋と楚の間で、どちらにも従いすぎず、どちらにも逆らいすぎなかった。 晋の宰相に、小国の負担を減らすよう手紙で頼み、聞き入れられた。 「天道は遠く、人道は近い」と言って、天変を占う者を退けた。 村の学校を壊せと言われて、 「人々がそこで政治を論じる。それを聞いて直せばよい」と断った。
BC522年に死んだ。 孔子は30歳ほどで、まだ会っていない。 だが『論語』でも『左伝』でも、子産を褒めている。 「古の遺愛なり」。昔の人の愛が残っている人、と。