子産
概要
晋と楚に挟まれた小国の宰相。法を鼎に鋳て公開し、田を整え、外交で国を保った。孔子が「古の遺愛なり」と言って泣いたと伝わる。
関わったできごと(1)
子産の刑鼎BC536年 · 宰相本文
子産は、春秋時代の鄭という国の人である。本名は公孫僑、子産は字で、鄭の穆公の孫にあたる。鄭は黄河の中流、いまの河南省の新鄭のあたりにあった中くらいの国で、北の大国晋と、南の大国楚のちょうど間に挟まれていた(城濮の戦い)。晋に従えば楚に攻められ、楚に従えば晋に攻められる。鄭は何十年ものあいだ、二つの大国の板挟みになって苦しんでいた。国の中でも、有力な一族どうしが権力を争っていた。

子産の名が最初に知られたのは、父が殺されたときだった。紀元前563年、鄭で反乱が起き、国政を担っていた父の子国らが殺された。混乱の中で、多くの人々は慌てふためいて逃げまどった。だが若い子産は、まず家の門に見張りを立て、役目の者をそろえ、倉を閉じて守りを固めた。それから兵を整えて出撃し、父の遺体を収め、反乱を鎮める側に加わった。歴史書の『春秋左氏伝』は、この落ち着いた振る舞いを書き留めている。
子産が国政の中心に立ったのは、紀元前543年のことである。彼はすぐに改革に取りかかった。田の境界を整えて用水路を掘り、農地の区画をはっきりさせ、人々を戸ごとにまとめて組織した。身分や役目に応じた決まりを定め、贅沢を戒めた。改革は、それまでの暮らしを変えられる人々の反発を招いた。最初の年、人々はこう歌ったという。わが衣と冠を取り上げ、わが田を取り上げた、子産を殺す者があれば、自分も加わろう。ところが3年たつと、歌は変わった。わが子弟を教え導き、わが田を豊かにしてくれた、子産が死んだら、誰が後を継いでくれるのか。

紀元前536年、子産は刑罰の決まりを青銅の鼎に鋳込み、人々の目に見える形で示した(子産の刑鼎)。それまで、刑罰の決まりは支配する者だけが知るものだった。何が罪になるかを人々が知れば、人々は決まりの文言を盾に争うようになる、と隣国晋の賢人叔向は手紙で強く批判した。子産は、自分は子孫のことまでは考えられない、いまの世を救いたいだけだ、と短く答えたという。法を公にするという試みは、のちの法家の考え方の先駆けともされる。
外交でも子産は手腕を発揮した。晋と楚のどちらにも従いすぎず、逆らいすぎない。晋の執政に手紙を送り、小国が負わされる重い貢ぎ物を減らすよう説き、聞き入れさせたこともある。晋を訪れたとき、用意された宿舎があまりに粗末だったので、子産は宿舎の垣を壊して車を中に入れた。驚いて責めに来た晋の役人に、子産は、大国が小国の使者をこのように扱うのは礼に背くと理路整然と述べ、晋の側が詫びて宿舎を建て直したという。小国の宰相が、言葉と礼の理屈で大国と渡り合った場面である。

子産は、占いや迷信に振り回されることを嫌った。あるとき、天の兆しから大火を予言した者が、祭りをして災いを払うべきだと迫った。子産は、天の道は遠く、人の道は近い、天の道のことは人には分からない、と言って取り合わなかった。また、人々が村の学校に集まって政治の善し悪しを論じているので、学校を壊してしまおうと言う者がいた。子産は、人々がよいと言うことは続け、悪いと言うことは改めればよい、それは自分の師である、と言って退けた。
紀元前522年、子産は亡くなった。死の前に、後を継ぐ子大叔にこう言い残したと伝えられる。徳のある者だけが寛やかな政治で人を従わせられる。そうでなければ、厳しい政治のほうがよい。火は激しいので、人は恐れて近づかず、焼け死ぬ者は少ない。水は弱々しいので、人は侮って戯れ、溺れ死ぬ者が多い。寛やかな政治は難しいのだ、と。子産の死を聞いた人々は、身分を問わず泣いたという。
子産が亡くなったとき、孔子は30歳になるかならないかだった。二人が会ったという確かな記録はない。だが孔子は子産を深く敬っていた。子産の死を聞いた孔子は涙を流し、昔の人の愛を受け継いでいる人だった、と言ったと『左伝』は伝える。『論語』の成立でも、孔子は子産について、自分の身を慎み、上に仕えて敬い、民を養って恵み深く、民を使うのに道理にかなっていた、と君子の道を備えた人として挙げている。

法を公にした子産は、のちに法家の先駆けとも見られ、民を思いやった子産は、儒家の理想の政治家とも見られた。二つの大国に挟まれた小国で、20年あまりにわたって国を保ち、内を治めたその姿は、春秋時代の政治家の中でも、とりわけ実際的で、人間味のある人物として描かれている。