長平の戦い
概要
趙の降兵40万が穴埋めにされたと伝わる。秦に対抗できる国が消えた。
場所
35.80°N 112.92°E · 中国・山西省高平
関わった人(1)
白起?–BC257年 · 秦側 · 総指揮本文
BC5世紀の終わり、三家分晋(戦国時代の始まり)で大国の晋が韓・魏・趙の三つに分かれ、中国は七つの大国が争う戦国時代に入った。その中で頭一つ抜け出したのが、西の秦である。BC4世紀の商鞅の変法で、秦は戦場で敵の首を取った数によって爵位と土地を与える国になっていた。農民は兵士となり、兵士は手柄を求めて戦った。BC3世紀に入ると、秦は東の国々の領土を少しずつ削り取り、名将白起は各地で大勝を重ねていた。
東の国々のなかで、秦に正面から対抗できる力を残していたのは、北の趙だった。趙はBC4世紀末に武霊王が遊牧民にならって騎馬の戦い方を取り入れ(胡服騎射)、強い軍を持っていた。戦いのきっかけは、両国の間にあった韓の上党という土地である。BC262年、秦が韓の領地を分断して上党を孤立させると、上党の長官は秦に降ることを嫌い、土地ごと趙に帰属すると申し出た。趙の朝廷では反対する者もいたが、労せずして領地が手に入ると、趙の孝成王はこれを受け入れた。秦は当然、黙っていなかった。

趙は老将の廉頗を長平(いまの山西省高平市の辺り)に送った。廉頗は初めの戦いで不利と見ると、堅い砦を築いて守りに徹し、秦が挑んでも出てこなかった。秦の軍は本国から遠く離れ、山を越えて食糧を運ばなければならない。持久戦になれば、先に苦しくなるのは秦のはずだった。にらみ合いは足かけ3年に及んだ。
『史記』によれば、ここで秦は趙に間者を送り、うわさを流させた。秦が恐れているのは老いた廉頗ではない、名将趙奢の子の趙括が将軍になることだ、と。趙括は幼いころから兵法を学び、議論では父さえ言い負かすほどだったという。動かない廉頗にいら立っていた孝成王は、このうわさに乗った。宰相の藺相如は、趙括は父の書物を読んでいるだけで、場に応じて変えることを知らないと諫めた。趙括の母も、夫は生前、息子に将軍は務まらないと言っていたと王に訴え、もし敗れても一族に罪を及ぼさないという約束を取り付けたと伝えられる。
趙括が着任すると、秦はひそかに総大将を白起に替え、そのことを漏らした者は斬ると命じた。趙括は守りを捨てて全軍で打って出た。秦の軍はわざと退いて趙の軍を引き込み、別の部隊が退路を断ち、さらに騎兵が趙の陣を二つに分断した。趙の大軍は山あいに閉じ込められ、食糧の道を失った。
包囲は46日に及んだ。『史記』は、飢えた趙の兵たちがひそかに殺し合ってその肉を食べたと記す。趙括は精鋭を率いて自ら突破を試み、秦の矢に射られて死んだ。残る兵はすべて降伏した。白起は、降った兵を生かしておけばまた背くと考え、40万人を穴に埋めて殺し、幼い者240人だけを趙へ帰したと『史記』は伝える。
この40万という数は、そのままには受け取られていない。趙の国の人口や当時の軍の規模から見て大きすぎるという意見は多く、戦死者や逃げた者を含めた数、あるいは誇張とみる研究者もいる。一方で、1995年には長平の古戦場とされる高平市の永禄村で、矢じりや刀傷の残る大量の人骨を埋めた穴が見つかり、大規模な殺戮があったこと自体は裏づけられつつある。
この敗北で、趙は働き盛りの男たちの多くを失った。秦は勢いに乗ってBC259年から趙の都、邯鄲を囲んだが、魏の信陵君や楚の援軍が駆けつけ、このときは落とせなかった。白起はこの攻撃に反対して王と対立し、BC257年に自害を命じられた。死の前に、長平で降った者を欺いて埋めたのだから自分は死んで当然だ、と語ったと伝えられる。
それでも、長平の後、東の国々のどこにも、単独で秦の軍と野戦で渡り合える力は残っていなかった。長平の戦いの翌年、趙の都の邯鄲では、人質として趙にいた秦の公子の子が生まれている。後の始皇帝である。それからおよそ40年後、秦は六国を次々に滅ぼし、BC221年の秦の中国統一を果たした。
兵法を紙の上で論じるだけで実戦の役に立たないことを「紙上談兵(紙上に兵を談ず)」と言う。この言葉は、長平で40万の兵を失った趙括の故事から生まれた。