武丁と婦好
概要
殷の最盛期の王と、その妃。婦好は1万3000の兵を率いて羌を討ち、祭祀を司った。1976年、殷墟で盗掘されていない墓が見つかり、青銅器468点、玉755点、殉葬16人。甲骨文に200回以上名が出る女性が、実物と結びついた。
場所
36.13°N 114.31°E · 中国・河南省安陽
関わった人(2)
武丁?–BC1190年頃 · 王婦好?–BC1200年頃 · 妃本文
殷は、中国で文字の記録によって確かめられる最も古い王朝である。王朝は紀元前16世紀ごろに興り(殷の成立)、紀元前1046年ごろ、西の周に滅ぼされた(牧野の戦い(殷周革命))。紀元前14世紀ごろ、王の盤庚は都をいまの河南省安陽の地に移した(盤庚の遷都)。その都の跡が、のちに「殷墟」と呼ばれる遺跡である。盤庚の甥にあたるのが、殷の最盛期を築いた王、武丁だった。
武丁の物語は、後の時代の書物に伝えられている。『書経』によれば、武丁は若いころ、民の間で暮らして苦労を知り、王になると59年にわたって国を治めた。夢に見た賢者の姿を絵に描かせて国中を探させ、土木工事で働かされていた傅説という男を見つけ出して宰相にした、という話もあるが、これは伝説の色が濃い。武丁は、のちに殷を立て直した王として「高宗」と呼ばれた。
武丁の時代を本当に生き生きと伝えるのは、同時代の文字である。殷の王は、何をするにも、亀の甲羅や牛の肩甲骨を焼いて、そのひびの形で神や祖先の意思を占った。占いの内容は、その骨に刻まれた。これが甲骨文字(甲骨文字)である。殷墟から出た甲骨は10万片を超え、そのうちの大きな部分が武丁の時代のものとされる。占いを担った「貞人」の名も数多く知られている。今夜、災いはあるか。雨は降るか。王の歯が痛むのは、どの祖先の祟りか。羌を攻めれば、神の助けを得られるか。王の毎日の心配と、国の大事が、骨の上に並んでいる。

その甲骨に、200回以上も名が出てくる女性がいる。武丁の妃の一人、婦好である。「婦」は王の妃などにつけられる称号で、「好」は彼女の出た氏族を指すとする説が有力である。甲骨には、婦好の出産が吉かどうかを占ったものがあり、占いの言葉の後に、結果として、めでたくなかった、女の子だった、と刻まれている。王の世継ぎを望む宮廷の空気が、そのまま伝わってくる。
婦好は、ただの妃ではなかった。甲骨には、婦好に命じて羌を討たせるべきか、土方を討たせるべきか、という占いが繰り返し出てくる。ある甲骨には、婦好の兵3000と、ほかの兵1万を集めて羌を討たせるべきか、とあり、合わせて1万3000という、甲骨に見える中でも最大級の兵力が動いている。婦好は祖先の祭りを執り行い、自分の領地を持ち、王へ貢ぎ物を納めた。王は彼女の病を心配して占い、その死を占った。彼女は武丁より先に死んだらしく、その後、武丁が彼女の霊に祈ったと読める甲骨もある。死んだ婦好を先王の妻としてあの世で嫁がせる占いと読む説もあるが、解釈は分かれている。

1976年、安陽の小屯村で、考古学者の鄭振香らが、宮殿の跡の近くに一つの墓を掘り当てた。のちに5号墓と呼ばれるこの墓は、殷墟の王族の墓では珍しく、盗掘を免れていた。墓穴は大きくはなかったが、中からは、青銅器468点、玉器755点、骨器564点、そして当時の貨幣として使われた子安貝が6800枚以上も出てきた。多くの青銅器には「婦好」の名が刻まれていた。婦好の祭祀の名とされる「母辛」を刻んだ器もあった。墓には16人の殉葬者と、6匹の犬が葬られていた。
なかでも目を引いたのは、婦好の名を刻んだ大きな青銅の鉞(まさかり)で、重いものは8キロを超える。鉞は、刑罰と軍の指揮の権威を表す道具だった。甲骨の中で兵を率いていた女性の墓から、その権威のしるしが出てきたのである。甲骨に書かれた人物が、実際の墓とその副葬品によって確かめられたのは、これが初めてだった。墓の年代や、ここに眠るのが本当に甲骨の婦好かについては異論もあるが、多くの研究者がそう考えている。

殷墟が殷の都の跡であることが分かったのは、20世紀のはじめである。1899年、北京の学者王懿栄が、薬として売られていた「竜骨」に文字が刻まれているのに気づいた、と伝えられる。その骨の出どころをたどって安陽の小屯村に行き着き、1928年から、中央研究院の李済や董作賓らが本格的な発掘を始めた。戦争と内戦で中断しながらも、発掘は続けられ、王の大きな墓や宮殿の跡が次々に掘り出された。婦好の墓の発見は、その半世紀の積み重ねの上にあった。
2006年、殷墟は世界遺産に登録された。殷より前にあったとされる夏の王朝については、それにあたる可能性のある遺跡(二里頭の宮殿)は見つかっているが、その時代の文字はまだ見つかっていない。文字と物の両方で確かめられる中国の歴史は、いまのところ、武丁と婦好の時代から始まっている。