老子
概要
『老子』に名を残す。作為を捨てよと説き、儒家とならぶ思想の柱になった。実在したかどうかも定まらない。
関わったできごと(1)
『老子』の成立成立年代に諸説あり · 作者とされる本文
老子は、中国の思想の二本の柱の一つ、道家の祖とされる人物である。だが、実在したかどうかも、いつの人なのかも、はっきりしない。紀元前1世紀に『史記』を書いた司馬遷でさえ、老子の伝記では、ある人はこう言う、別の説ではこうだ、と書き重ね、判断を保留している。ちなみにその伝記は、法家の韓非と同じ巻に収められている。

『史記』によれば、老子は南方の楚の国の人で、姓は李、名は耳、字は聃といった。周の王室で、書庫を管理する役人を務めていたという。孔子が周の都を訪れ、老子に礼について教えを請うた、という話も『史記』に載っている。老子は、すぐれた商人は品物を奥深くしまって店を空っぽに見せ、徳のある君子は外から見ると愚か者のようだ、あなたの驕りと欲を捨てなさい、と答えた。孔子は弟子に、鳥や魚や獣は捕らえ方が分かるが、竜だけは分からない、今日会った老子は竜のようだった、と語ったという。この会見の話は、道家の側が孔子より老子を上に置くために作ったものとも考えられている。
やがて老子は、周の国が衰えたのを見て、西へ去った。国境の関所に着くと、関所の長の尹喜が、あなたはこれから世を隠れるのだから、どうか私のために書を残してほしい、と頼んだ。老子は上下二篇、五千字余りの書を書いて去り、その最期を知る者はいない、と『史記』は書く。関所は函谷関だとされ、老子が牛に乗って関を越える姿は、のちに絵の題材として好まれた。

だが司馬遷は、同じ伝記の中に、ほかの説も並べている。孔子と同じ時代の楚の人で、十五篇の書を著した老莱子という人物が老子だという説。孔子の死から百年以上たって秦の王に会った、周の太史の儋が老子だという説。老子は160歳余りとも200歳余りとも生きたという話まで載せている。人物像が定まらないのは、もともと複数の人物の伝承が一人にまとめられたためだと考えられている。
書としての『老子』(『老子』の成立)も、一人の手で一度に書かれたものではないとみられている。1973年に湖南省の馬王堆の漢代の墓から、絹に書かれた二種類の写本が見つかり、1993年には湖北省の郭店の紀元前300年頃の墓から、竹簡に書かれた写本の一部が見つかった。郭店の竹簡は、いま伝わる本の3分の1ほどの分量しかなく、章の並びも違う。紀元前4世紀頃から言葉が少しずつ集められ、漢の時代に今の形に整えられていったと考えられている。
『老子』が説くのは、道である。道は万物を生み出す根源だが、言葉で言い表せるものではない。道とは言い表せるようなものは本当の道ではない、と書は始まる。人は、作為を捨て、自然のままに従うべきだ。これを無為自然という。最上の善は水のようなものだ、と書はいう。水は万物をうるおして争わず、人の嫌がる低い所に流れていく。この世で水より柔らかく弱いものは無いが、堅く強いものを攻めるのに、水にまさるものは無い。
この考えは、儒家への鋭い批判を含んでいた。大いなる道がすたれたから、仁義が説かれるようになった、と『老子』はいう。孔子の説く仁や義、礼は、本来の在り方が失われた後の、つぎはぎにすぎない。知恵や欲を捨て、足ることを知り、小さな国で少ない民が素朴に暮らすのがよい。統治者は、民に自分の存在を意識させないのが最上である、と書は説く。

『老子』は、戦国時代の末から漢の初めにかけて、政治の思想としても読まれた。民を休ませ、干渉を控える漢初の黄老の政治はその表れである。また、のちの荘子の思想と合わせて老荘と呼ばれ、世俗を離れて自由に生きる知識人の拠りどころになった(『荘子』)。
後漢の末、四川で起こった五斗米道は、『老子』を信者に読ませる経典とし、老子を神として祀った(五斗米道の始まり)。こうして老子は、道教の最高神の一人、太上老君となった。不老長生を求める修行や仙薬の術とも結びつき、書に書かれた内容とはかなり離れた方向へも広がっていった。唐の皇室は、同じ李姓であることから老子を自分たちの祖先として尊び、皇帝の称号まで贈っている。老子が西へ去った後、インドで仏陀になったという話まで作られ、仏教との論争の種にもなった。

いま『老子』は、聖書に次いで多くの言語に訳された書物の一つだともいわれる。実在の定かでない人の名を冠した五千字の書が、2000年以上にわたって、読む人ごとに違う顔を見せ続けている。