人物

墨子

Mozi
BC470年頃 – BC390年頃(享年80・推定)
魯重要度 3

概要

職人の出で、儒家に学んでから離れた。すべての人を等しく愛し、攻める戦争を否定し、音楽と葬式の浪費を責めた。弟子は規律の固い集団で、城を守る技術で食べた。戦国の間は儒家と並ぶ勢いで、秦のあと消えた。

関わったできごと(1)

墨子の兼愛と非攻BC430年頃 · 思想家

本文

墨子の名は翟(てき)という。魯の人とも、宋の人とも言われる。司馬遷の『史記』でさえ、宋の大夫で守りの術に長けた、孔子と同じ頃とも後の人とも言う、とわずか二十数字しか書いていない。生まれた年も死んだ年も分からないが、孔子の死のあと、孟子より前、紀元前5世紀の後半から4世紀の初めの人とみられている。三家分晋(戦国時代の始まり)で戦国時代が幕を開ける頃である。

墨子の肖像
墨子の肖像Wikimedia Commons Vjacheslav Rublevskiy · CC0

墨という姓には謎がある。顔に入れ墨をされた刑罰の名から来た、つまり罪人や奴隷の出だったとする説、大工が線を引く墨縄から来た職人の呼び名だとする説、黒い粗末な服を着ていたからだとする説がある。いずれにせよ、墨子の周りには手仕事と技術の匂いが濃い。『韓非子』には、墨子が3年かけて木の鳶を作り、1日飛ばして壊してしまった、という話が載っている。

漢代の『淮南子』によれば、墨子は初め儒者の学問を学び、孔子の教えを受けた。しかし儒家の礼は煩わしく、手厚い葬式は財を費やして民を貧しくし、長い喪は人の暮らしを損なうと考えて、儒家を離れたという。彼は、礼と音楽で秩序を作ろうとする儒家に対して、民の衣食を何より優先する別の道を説いた。

墨家は築城や攻城戦に長じた集団だった(泉州・崇武の城壁)
墨家は築城や攻城戦に長じた集団だった(泉州・崇武の城壁)Wikimedia Commons Dingar · Public domain

その教えは「十論」と呼ばれる十の主張にまとめられる。中心にあるのが兼愛と非攻である(墨子の兼愛と非攻)。天下が乱れるのは、人が自分を愛して他人を愛さず、自分の家を愛して他人の家を愛さず、自分の国を愛して他人の国を愛さないからだ。他人の国を自分の国のように見れば、誰が攻めるだろうか。儒家が説く、親から始めて遠い者へと薄くなっていく愛に対して、墨子は区別のない愛を説いた。

非攻の論は、今も鋭い。人の果樹園に入って桃や李を盗めば、人はそれを不義と言う。人の牛や馬を盗めば、もっと不義だと言う。一人を殺せば死罪になり、十人を殺せば十倍の罪になる。ところが、他国を攻めて何万もの人を殺すと、人はそれを褒めたたえて義と呼び、記録に書き残す。少しの黒を見て黒と言い、たくさんの黒を見て白と言う者がいれば、白と黒の区別がつかない者だと言うだろう、と。

孟子(孟軻)の肖像画
孟子(孟軻)の肖像画Wikimedia Commons anonymous · Public domain

ほかにも墨子は、身分に関わりなく賢い者を用いよ(尚賢)、天の意志は人々が互いに愛し合うことにある(天志)、鬼神は実在して悪を罰する(明鬼)、費用を切り詰めよ(節用)、葬式を簡素にせよ(節葬)、音楽は民の衣食を生まないから退けよ(非楽)、運命は定まっていないから努力せよ(非命)と説いた。

墨子は言葉だけの人ではなかった。『墨子』の公輸篇はこんな話を伝える。魯の名工・公輸盤が楚のために城攻めの梯子「雲梯」を作り、楚は宋を攻めようとしていた。それを聞いた墨子は、十日十夜歩き続けて楚の都に着き、公輸盤と楚の王に会った。墨子は帯を解いて城に見立て、木の札を道具にして、公輸盤と机の上で攻防を演じた。公輸盤は九度攻め方を変え、墨子は九度それを防いだ。攻め手の尽きた公輸盤は、自分には墨子を倒す方法がある、だが言わないと言った。墨子は答えた。私を殺せば宋を守る者がいなくなると思っているのだろう。だが私の弟子の禽滑釐ら300人が、私の作った守りの道具を持って、すでに宋の城の上で待っている、と。楚の王は宋を攻めるのをやめた。帰り道、墨子は宋を通りかかって雨に降られたが、門番は彼が誰かを知らず、中に入れなかったという。

墨子の弟子たちは、鉅子と呼ばれる首領のもとに固く結ばれた集団を作った。『淮南子』は、墨子に仕える者180人は、みな火の中に飛び込み刃を踏ませることができ、死んでも踵を返さない、と書く。『呂氏春秋』によれば、鉅子の孟勝は楚の封君の城を守る約束を果たせなくなると、弟子180人余りとともに自ら死んだ。また秦にいた鉅子の腹䵍は、息子が人を殺したとき、秦の王が特別に許そうとしたのを断り、墨家の法に従って息子を死なせたという。『墨子』の後半には、城壁の造り方、穴を掘って攻める敵への備え、煙や水を使った防御など、守城の技術が細かく書かれている。また「墨経」と呼ばれる部分には、論理学や幾何学、光の進み方についての議論があり、小さな穴を通った光が逆さの像を結ぶことにも触れている。

戦国時代、墨家は儒家と並ぶ大きな学派だった。孟子は「楊朱と墨翟の言葉が天下に満ちている」と嘆き、区別なく愛せというのは自分の父を父と思わないことだ、と激しく攻撃した。『韓非子』も、世に名高い学問は儒と墨だと書いている(『韓非子』)。

『韓非子』に関わる図版:Hanfeizi or Han Feizi, Qing dynasty, Hunan Museum
『韓非子』Wikimedia Commons Huangdan2060 · Public domain

ところが秦が天下を統一し(秦の中国統一)、漢が儒学を国の学問とすると(儒学の官学化)、墨家は急速に姿を消した。強い規律で結ばれた私的な武装集団は統一国家には危険であり、平等の愛は身分の秩序と相容れなかった。『墨子』はその後2000年近くほとんど読まれず、多くの篇が失われ、残った本文も乱れた。

再び光が当たったのは、清の末期である。学者の孫詒譲が乱れた本文を整理して詳しい注釈を作り、梁啓超らは墨子の兼愛をキリスト教の博愛と比べ、論理学や科学の記述を西洋の学問に通じるものとして読んだ。20世紀の中国では、手仕事をする民衆の側の思想家として評価された。2016年、中国が打ち上げた世界初の量子科学実験衛星は「墨子号」と名づけられている。

動画(1)

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