白起
概要
長平で趙の降兵を穴埋めにしたと伝わる。秦の統一を軍事で準備した将。
所属
秦関わったできごと(1)
長平の戦いBC260年 · 秦側 · 総指揮本文
秦の将軍になる。生まれは秦の郿(いまの陝西省眉県)で、生年は分からない。30年以上、負けなかったとされる。

白起が生まれる半世紀ほど前、秦は商鞅の変法で国を作り変えていた。戦場で討ち取った敵の首の数で爵位を与える仕組みが整えられ、兵は首を取るために戦った。白起の戦歴が、斬首の数で記録されているのはそのためである。仕えたのは昭襄王で、外戚の穣侯・魏冄に見出されて将となった。
名を上げたのは紀元前293年の伊闕の戦いだった。韓と魏の連合軍を破り、24万の首を斬ったと『史記』は書く。紀元前278年には南の大国・楚を攻め、都の郢を落とした。楚の王家の墓所がある夷陵を焼き払い、楚は都を東の陳へ移さざるをえなかった。秦はその地に南郡を置いた。この功で武安君に封じられる。紀元前273年の華陽の戦いでは、魏と趙の軍を破って13万を斬り、趙の兵2万を黄河に沈めたとされる。
最大の戦いは、長平の戦いだった。紀元前262年、秦に攻められた韓の上党郡が、秦に降ることを嫌って趙に身を寄せた。趙がこれを受け入れたことから、秦と趙は長平(いまの山西省高平市)で向き合う。趙の老将・廉頗は堅い陣を築いて動かず、戦いは長引いた。秦は、趙が恐れているのは若い趙括が将になることだ、という噂を趙の都に流した。趙括は名将・趙奢の子で、兵法の議論では父をも言い負かしたが、実戦の経験は乏しかった。趙王は噂に乗って廉頗を退け、趙括を送り込んだ。
秦はひそかに将を白起に替え、そのことを漏らした者は斬ると命じた。紀元前260年、白起は退くふりをして趙軍を誘い出し、別働隊でその退路と補給路を断った。包囲された趙軍は46日間食べるものがなく、互いに殺して食べ合うほどだったと『史記』は書く。趙括は自ら突撃して射殺され、残った兵は降伏した。
白起は降兵を穴埋めにしたと伝わる。降伏した兵は反覆して信用できない、殺さなければ乱を起こす、と考えたという。幼い者240人だけを趙へ帰し、残りを生き埋めにした。数は40万とされるが、疑われている。同時代の他の記録との整合が取れず、それだけの兵を長平に集められたのかにも疑問が出されている。1995年、高平市の永録村で、大量の人骨を埋めた穴が見つかった。刀傷や矢じりの残る骨が多く、ここで大量の殺戮があったことは確かめられたが、数の裏づけは部分的にとどまる。後世、白起は「人屠」、人を屠る者、と呼ばれた。
勝った白起は、そのまま趙の都・邯鄲を攻めるべきだと考えた。ところが宰相の范雎は、白起の功がこれ以上大きくなることを恐れ、兵の疲れを理由に和議を結ぶよう王に勧めた、と『史記』は書く。白起と范雎の仲は、ここから冷えた。
翌年、秦は改めて邯鄲を攻めたが、白起は病で加わらなかった。包囲は長引き、秦軍は損害を重ねた。王が白起に指揮を命じると、白起は拒んだ。趙は長平の後に立ち直り、諸侯の援軍も来る、今はもう勝てない、という判断だった。実際、紀元前257年、魏の信陵君と楚の援軍が来て、秦軍は邯鄲の城下で敗れた。
白起の見立ては当たったが、それが王の怒りを買った。白起は爵位を奪われて一兵卒に落とされ、都を追われた。咸陽を出てまもない杜郵で、王の使者が剣を届けた。自害せよ、という意味である。
死ぬ前に、自分は天に対して何の罪があってこうなるのか、と嘆き、しばらくして、長平で降兵数十万を欺いてことごとく生き埋めにした、それだけで死ぬに値する、と言ったと伝わる。『史記』の記述になる。秦の人々はその死を憐れみ、各地で彼を祀ったとも書かれている。
長平の戦いの翌年、邯鄲の城内では、秦から人質として来ていた公子の子が生まれている。のちの始皇帝である。白起が死んでから36年後、秦の中国統一が成し遂げられる。長平で趙の兵力が失われたことが、統一への道を大きく開いた。白起は、秦の統一を軍事で準備した将だった。
司馬遷は、白起を秦の統一を成し遂げた将軍・王翦と同じ列伝に収めた。司馬遷が、その最期にその言葉を置いたことの意味は、読む側に委ねられている。