できごと

越が呉を滅ぼす

Yue destroys Wu
BC473年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民原アルタイ系の牧畜民周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国オーストロネシア系の人びと鉄器時代の巨石文化縄文後期アイヌマガダクルパンチャーラシンハラBC473年蘇州(呉)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC473年の版図を描いています(13勢力)。

概要

呉に降って三年仕えた越王勾践が、二十年かけて国を立て直し、呉を滅ぼした。呉王夫差は自害する。薪に臥し胆を嘗めるという言葉が、ここから出た。

場所

蘇州(呉)
31.30°N 120.58°E · 中国・江蘇省

関わった人(1)

勾践?–BC465年 · 越王

本文

春秋時代の終わり、長江の下流には二つの国が隣り合っていた。いまの蘇州を都とする呉と、その南、いまの紹興を中心とする越である。どちらも中原の国々からは、髪を短く切り、体に入れ墨をした南の異民族の国と見られていた。しかし紀元前6世紀の後半、呉は急に強くなる。楚から亡命してきた伍子胥と、兵法家の孫武(孫子)を迎えた呉王闔閭は、紀元前506年、大国の楚の都を攻め落とした(『孫子』の兵法)。その呉が、背後の越と争うことになった。

紀元前496年、闔閭は越に攻め込んだ。迎え撃った越王勾践は奇策を使ったと伝えられる。死刑囚を三列に並べて呉の陣の前に進ませ、彼らに自分の首をはねさせた。呉の兵が呆然と見とれた隙に、越軍が襲いかかった。闔閭は足の指を傷つけられ、その傷がもとで死んだ。死の床で、息子の夫差に、越が父を殺したことを忘れるな、と言い残した。夫差は、人を庭に立たせ、自分が出入りするたびに「夫差よ、越王がお前の父を殺したのを忘れたか」と呼ばわらせ、そのたびに「忘れません」と答えたと『史記』は書く。

1983年に江陵馬山5号墓から出土した夫差の矛
1983年に江陵馬山5号墓から出土した夫差の矛Wikimedia Commons fmwang · Public domain

2年後の紀元前494年、夫差は越を大破し、勾践は5000の兵とともに会稽山に追い詰められた。勾践は家臣の文種を送り、呉の重臣の伯嚭に賄賂を贈って、降伏を願い出た。伍子胥は、いま越を滅ぼさなければ必ず後悔する、と強く反対した。越は10年かけて人を増やし、10年かけて民を鍛えるだろう、20年のうちに呉は沼地になる、と『左伝』は彼の言葉を伝える。夫差はそれを聞かず、降伏を受け入れた。勾践はみずから呉へ赴いて仕え、何年かのちに許されて国へ帰った。呉で夫差の馬の世話をさせられたという話は、漢代以降の書物に詳しく描かれる。

国へ帰った勾践は、苦い獣の胆を座るところに吊るし、座るたび、寝起きのたびにそれを仰ぎ見て、食事のたびに嘗め、「お前は会稽の恥を忘れたか」と自分に言い聞かせたと『史記』は記す。自ら畑を耕し、夫人は機を織り、肉を食べず、飾った服を着なかった。人口を増やすために早く結婚させ、子を産めば褒美を与えた。後世、夫差が薪の上に寝て恨みを忘れなかった話と組み合わされ、「臥薪嘗胆」という四字の言葉になった。もとの史書では、薪の話ははっきりしない。

『東周列国志』の挿絵に描かれた勾践
勾践Wikimedia Commons 清蔡奡評點 · Public domain

一方、夫差は北へ目を向けた。運河を掘って軍を北へ送り、紀元前484年には斉の軍を破った。伍子胥はなおも、本当の敵は越だと諫め続けたが、夫差は彼を疑い、自害のための剣を与えた。伍子胥は、私の目をくり抜いて東の門に掛けよ、越の軍が呉に入ってくるのを見届けたい、と言い残して死んだという。越が呉の王に美女の西施を贈って心を奪ったという有名な話も、漢代以降の書物に現れるもので、史実かどうかは分からない。

紀元前482年、夫差は黄池で中原の諸侯を集め、晋と覇者の座を争った。精兵を連れて国を空けたその時、勾践は呉の都を襲い、留守を守っていた太子を捕えて殺した。夫差は急いで帰り、和を結んだが、呉の力は目に見えて衰えていった。紀元前478年、越は呉の軍を大きく破り、やがて都を囲んだ。包囲は3年に及んだ。

蘇州の運河
蘇州の運河Wikimedia Commons Horiuchi · Public domain

紀元前473年、追い詰められた夫差は、かつての勾践と同じように降伏を願い出た。勾践は、夫差を東の海辺の地に移し、100の家を与えて余生を送らせようとした。夫差はそれを断り、「私は年老いた。もう王に仕えることはできない」と言い、さらに、あの世で伍子胥に合わせる顔がない、と布で顔を覆って自ら命を絶った。勾践は呉の地を合わせ、北へ進んで諸侯を集め、周の王から覇者として認められた。斉の桓公に始まる春秋の覇者(斉の桓公の覇)の、最後の一人に数えられることもある。

勝ったあとの話も、よく知られている。勾践を支えた参謀の范蠡は、王のもとを去り、残った文種に手紙を送った。空を飛ぶ鳥が尽きれば良い弓はしまわれ、すばしこい兎が死ねば猟犬は煮られる。越王は苦しみを共にすることはできても、楽しみを共にすることのできる人ではない、と。文種は病と称して朝廷に出なくなったが、謀反を疑われ、勾践から剣を贈られて自害した。范蠡は名を変えて斉に移り住み、のちに陶の町で商売をして巨万の富を築き、陶朱公と呼ばれたと伝えられる。

繁栄する蘇州(絵画)
繁栄する蘇州(絵画)Wikimedia Commons Xu Yang · Public domain

1965年、湖北省の楚の墓から、一振りの青銅の剣が見つかった。鞘から抜くと刃はまだ鋭く、菱形の文様が鮮やかで、鳥の形を模した文字で「越王鳩浅、自ら作りて用いる剣」と刻まれていた。鳩浅は勾践のことと考えられている。2500年を土の中で過ごした剣は、物語の王が実在したことを静かに伝えている。

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