人物

孟子

Mencius
BC372年頃 – BC289年頃(享年83・推定)
鄒重要度 4

概要

性善説を説き、民を重んじる政治を主張した。孔子の思想を体系へ進めた。

関わったできごと(2)

『論語』の成立BC400年頃 · 受け継いだ荀子と稷下の学BC260年頃 · 性善説に反対

本文

孟子は紀元前372年ごろ、山東半島の付け根にあった小国、鄒に生まれた。名は軻という。孔子の故郷の魯とは隣り合っていて、孔子の死から100年あまりたった頃である。生年と没年には諸説あり、紀元前385年ごろの生まれとする説もある。

孟子(孟軻)の肖像画
孟子(孟軻)の肖像画Wikimedia Commons anonymous · Public domain

幼い頃に父を亡くし、母の手で育てられたという。その母についての話がよく知られている。はじめ墓地の近くに住むと、孟子は葬式のまねをして遊んだ。市場の近くに移ると、商人のまねをして遊んだ。そこで学校の近くに移ると、礼儀作法のまねをするようになったので、母はようやくそこに落ち着いた。孟母三遷の教えである。また、学問を途中でやめて帰ってきた孟子の前で、母は織りかけの布を刀で断ち切り、学問を途中でやめるのはこの布を断つのと同じだと諭した、という話もある。ただ、これらはいずれも、孟子の死から200年以上たった前漢の時代に編まれた女性の伝記集に見える話で、史実かどうかは分からない。

司馬遷の『史記』によれば、孟子は孔子の孫の子思の門人に学んだ(『史記』の完成)。孔子の教えを受け継ぐ儒家の一人として、孟子は孔子のように諸国を回り、君主たちに自分の政治の考えを説いた。時代は戦国の半ばで、魏や斉、秦などの大国が、領土を広げるために戦争を繰り返していた。秦では商鞅の改革によって、法と賞罰で民を戦争に駆り立てる強い国が作られつつあった。君主たちが求めていたのは、国を富ませ、兵を強くし、他国に勝つための策だった。

E・T・C・ワーナー著『中国の神話と伝説』(1922年)の孟子像
E・T・C・ワーナー著『中国の神話と伝説』(1922年)の孟子像Wikimedia Commons By Chinese Artists · Public domain

孟子が魏の恵王に会ったとき、王は、先生は千里の道を遠いとも思わずに来てくださった、わが国に何か利益をもたらしてくださるのでしょう、と言った。孟子は、王はどうして利益のことばかりおっしゃるのですか、大切なのは仁と義だけです、と答えた。王が利益を求めれば、家臣も自分の家の利益を求め、民も自分の利益を求め、上下が利益を奪い合って国は危うくなる。孟子の書物は、この問答から始まる。

孟子が説いたのは、王道の政治だった。武力で人を従わせる覇道ではなく、民の暮らしを安定させ、徳によって人を心から服させる政治である。民に一定の財産と収入が無ければ、一定の道徳心も保てない。だから君主は、まず民が飢えず凍えないようにし、そのうえで教育を施すべきだ、と孟子は説いた。土地を井の字の形に九つに区切り、真ん中を共同で耕して税とする井田の制度を理想として語ったのも、民の暮らしの土台を重んじたからである。

狩野山雪画『孟子』(1632年)
狩野山雪画『孟子』(1632年)Wikimedia Commons Kanō Sansetsu (狩野 山雪 1589–1651) · CC BY 4.0

政治についての孟子の言葉は、きわめてはっきりしている。民が最も貴く、国家の祭る社稷はその次で、君主は軽い。君主が民を思わず、仁と義を損なうなら、その者はもはや君主ではなく、ただの一人の男にすぎない。殷の紂王が周の武王に討たれたことについて、臣下が君主を殺してよいのかと問われると、孟子は、一人の男である紂を誅したとは聞いているが、君主を殺したとは聞いていない、と答えた。天命は民の心を通して示され、民の心を失った君主は天命を失う。徳を失った王朝が倒れて新しい王朝に代わることを認めるこの考えは、易姓革命と呼ばれる。

その政治論を支えたのが、人の本性は善であるという性善説である。孟子は言う。幼い子どもが井戸に落ちそうになっているのを見れば、誰でもはっと驚き、かわいそうに思う。それは、子どもの親と付き合いたいからでも、評判を得たいからでもない。人には生まれつき、他人の苦しみを見過ごせない心、悪を恥じる心、人に譲る心、善悪を見分ける心の四つの芽が備わっている。それを育てれば、仁・義・礼・智の徳になる。人が悪をなすのは、この芽を育てずに損なってしまうからだ。人の本性は善でも悪でもないと説く告子とは、激しい論争を交わしている。

『論語』の成立に関わる図版:Rongo Analects 02
『論語』の成立Wikimedia Commons Confucius and his disciples, · Public domain

孟子は、同時代に広まっていた二つの思想を厳しく批判した。自分の身を大切にすることを説く楊朱の思想と、すべての人を分け隔てなく愛せと説く墨子の思想である(墨子の兼愛と非攻)。孟子は、楊朱は君主を無視し、墨子は父を無視する、と非難した。親を特に愛するという自然な情から出発し、それを他人に及ぼしていくのが仁だ、というのが孟子の考えだった。

孟子は、斉の宣王のもとで重んじられ、高い地位を与えられた時期もあった。斉が隣国の燕の内乱に乗じて攻め込んだとき、孟子は、燕の民が喜ぶなら取ればよい、と答えたとされる。しかし占領した斉の軍は燕の民を苦しめ、各国の反発を招いて撤退した。孟子は斉を去った。結局、孔子と同じく、どの国でも自分の理想の政治を実際に行うことはできなかった。晩年は郷里に戻って弟子たちと語り合い、その言葉が弟子たちの手で『孟子』7篇にまとめられた。紀元前289年ごろに死んだとされる。

孟子の後、儒家の中では、人の本性は悪であり礼によって正さなければならないと説く荀子が現れ、孟子の説と並び立った。孟子が儒家の正統として確固たる地位を得るのは、ずっと後のことである。唐の韓愈が、孔子の道は孟子に伝わり、その後は途絶えたと論じ、宋の朱熹(朱子)が『孟子』を『論語』『大学』『中庸』とともに四書の一つに定めた(朱子学の成立)。元の時代以降、四書は科挙の基本の教科書となり、孟子は孔子に次ぐ「亜聖」と呼ばれるようになった。

一方で、君主より民を重んじ、暴君を討つことを認める孟子の言葉は、支配者にとって危険でもあった。明を建てた洪武帝は、孟子の中の君主を軽んじる箇所に激怒し、その部分を削った版を作らせたと伝えられる。日本でも、易姓革命の思想は天皇の万世一系と相いれないとして警戒され、孟子の書を積んだ船は日本に着く前に沈む、という言い伝えが語られた。それでも孟子は広く読まれ、幕末には吉田松陰が獄中で『孟子』を講じ、その講義録を残している。民を政治の根本に置いたその言葉は、2000年以上を経たいまも、統治とは誰のためのものかを問うとき、しばしば引かれる。

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