呂不韋
概要
「奇貨居くべし」と言って人質の王子に投資した商人。その子が始皇帝になり、相国として国を動かした。『呂氏春秋』を編み、一字でも直せる者に千金を出すと掲げた。
所属
秦関わったできごと(1)
呂不韋の摂政BC247年 · 相国本文
呂不韋の生まれた年は分からない。『史記』は韓の陽翟の大商人と書き、『戦国策』は衛の濮陽の人とする。いずれにせよ、戦国時代の末に各地を行き来して安く買い高く売り、千金の財を積んだ商人だった。

趙の都の邯鄲で、彼は一人の若者を見かけた。秦の王族の子楚(もとの名は異人)である。子楚の父は秦の太子安国君で、安国君には20人以上の子がいた。子楚はその中ほどの生まれで、母も寵愛を受けていなかった。だから秦と趙の約束の担保として、人質に出されていた。秦はたびたび趙を攻め、紀元前260年には長平の戦いで趙の大軍を破っている。人質の扱いは粗末で、子楚は車にも事欠く暮らしだったという。
呂不韋はこれを「奇貨居くべし」と言った。珍しい品だから、買っておけば値が出る、という意味である。『戦国策』は、彼が家に帰って父と交わした問答を伝える。畑を耕せば利は何倍か。十倍。宝玉を商えば。百倍。国の主を立てれば。数え切れない。後世の脚色を含む話かもしれないが、呂不韋という人の考え方をよく表している。

呂不韋はまず子楚に500金を渡して交際の費用にさせ、自らはさらに500金で珍しい品を買って秦へ向かった。狙いは安国君の正夫人、華陽夫人である。夫人は寵愛を受けていたが、子が無かった。呂不韋は夫人の姉を通じて品を贈り、子楚が賢く、夫人を天のように慕っていると伝えさせた。色の衰えたあとに頼れるのは養子だけだ、とも説かせた。華陽夫人はこれに動かされ、子楚を自分の跡継ぎに迎えるよう安国君に頼んだ。子楚は夫人が楚の出身であることにちなみ、名を改めたとされる。
呂不韋は邯鄲で、自分のもとにいた美しい舞姫を子楚に譲った。この女性が紀元前259年に男子を産む。名は政、のちの始皇帝である。『史記』は、女性は譲られる前から呂不韋の子を身ごもっていたと書く。しかし月数の勘定が合わないことや、秦を憎む側の噂が混じった可能性から、これを疑う研究者は多い。真偽はいまも分からない。
紀元前251年に秦の昭襄王が死に、安国君が即位した。だが孝文王はわずか3日で世を去り、子楚が王になった(荘襄王)。呂不韋は丞相となり、文信侯に封じられて、洛陽の10万戸を領地に得た。賭けは当たったのである。荘襄王も3年で死に、紀元前247年、13歳の政が即位した。呂不韋は相国として政治の全権を握り(呂不韋の摂政)、王から「仲父」と呼ばれた。召し使いは1万人、抱えた食客は3000人に及んだと『史記』は書く。
その食客たちに書かせたのが『呂氏春秋』である。天地、万物、古今の事柄を、儒家、道家、墨家、法家、陰陽家など諸派の説を集めて編んだ。一つの学派に偏らないので、のちに雑家と分類される。完成すると、呂不韋はそれを咸陽の市の門に並べ、一字でも増やしたり削ったりできる者には千金を与える、と掲げた。「一字千金」の言葉はここから出た。自信の表れであり、同時に権勢の誇示でもあった。季節ごとの政治の心得をまとめた部分は、統一前夜の秦が目指した秩序をうかがわせる史料としても読まれている。
権勢には影もあった。呂不韋は荘襄王の死後も、太后となった趙姫との関係を続けていたとされる。王が成長するにつれ発覚を恐れ、嫪毐という男を宦官と偽って太后のもとへ送り込んだ。嫪毐は太后の寵愛を受けて長信侯に封じられ、二人の子までもうけた。紀元前238年、成人の儀を迎えた王に告発されると、嫪毐は兵を挙げ、敗れて一族と共に殺された。
呂不韋は嫪毐を推した責めを問われ、翌年に相国を罷免されて領地の河南へ退いた。しかし各国の使者や客がひっきりなしに訪ねてきたため、王は危うさを感じ、手紙を送った。君は秦に何の功があって10万戸を食むのか。秦と何の縁があって仲父を名乗るのか。一族を連れて蜀へ移れ。呂不韋は、いずれ誅されると悟り、紀元前235年に毒を飲んで死んだ。
14年後の紀元前221年、政は秦の中国統一を成し遂げ、始皇帝を名乗る。その国の土台を整えた時期に、相国として秦を動かしていたのが呂不韋だった。商人の投資が王朝を動かした話として、「奇貨居くべし」はいまも語り継がれている。