晋の文公
概要
重耳。父の寵姫に追われ、43歳から19年、狄・斉・楚・秦を放浪した。斉では妻に酔わされて車に乗せられた。62歳で秦の兵で帰り、4年で覇者になった。介子推が山で焼け死んだ話が、寒食の由来。
関わったできごと(1)
城濮の戦いBC632年 · 晋の文公本文
晋の文公、名は重耳。『史記』によれば紀元前697年に、晋の献公の子として生まれた。母は北方の異民族、狄の狐氏の出である。肋骨が一枚板のようにつながっていた(駢脅)という身体の特徴が伝えられ、これが後の放浪中の逸話にも出てくる。生年は『春秋左氏伝』の記述から逆算すると20年以上遅くなり、放浪を始めた年齢や帰国の年齢も、どちらに拠るかで大きく変わる。ここでは『史記』の年に従う。

晋は黄河の中流、いまの山西省を本拠とする大国だった。父の献公は周辺を併合して国を広げたが、晩年、戦いで得た驪戎の娘、驪姫を寵愛した。驪姫は自分の産んだ奚斉を後継にしようと、太子申生と、重耳、夷吾の二人の公子を除く策をめぐらせた。紀元前656年、申生が父に献じた祭りの肉に毒が入っていたとして罪をきせられた。申生は弁明すれば父の寵姫を責めることになり、逃げれば父に子を殺そうとした汚名を着せる、と言って自ら命を絶った。翌年、重耳も討っ手を差し向けられ、居城の蒲から逃げた。追ってきた宦官の披に袖を斬り落とされながら、母の故郷である狄へ走った。
ここから19年に及ぶ放浪が始まる。狄には12年いた。献公の死後、晋の重臣里克が奚斉らを殺して重耳を迎えようとしたが、彼は父の喪中に国を取ることはできないと断った。代わりに弟の夷吾が秦の後ろ盾で即位した(恵公)。恵公は兄を恐れて刺客を送り、重耳は狄を離れて東の大国、斉へ向かった。
斉では斉の桓公の覇で知られる桓公が彼を厚くもてなし、一族の娘(斉姜)を妻に与え、馬も贈った。重耳はこの暮らしに満足し、ここで生涯を終えてもいいと言い出した。従者たちが連れ出す相談をしていると、それを聞いた斉姜は秘密が漏れないよう聞いた侍女を殺し、夫に旅立ちを勧めた。重耳が聞き入れないので、彼女は従者と謀って夫を酔わせ、車に乗せて斉の国を出してしまった。目を覚ました重耳は怒り、戈を手に従者の狐偃を追い回したという。
その後の旅で、彼は諸国の態度に振り回された。曹の君主は、彼の肋骨が本当につながっているかを見ようと、湯浴みをのぞき見た。曹の大夫僖負羈の妻は、従者たちを見て、この公子は必ず国に帰って覇者になると夫に告げ、夫はひそかに食事と玉を贈った。宋の襄公は馬を贈って礼を尽くし、鄭は冷たく扱った。南の大国、楚の成王は彼を賓客として遇し、国に帰ったら何で報いるかと尋ねた。重耳は、もし両国が戦場で向き合うことがあれば、自分の軍を三舎(三日の行程、およそ90里)退かせましょう、と答えた。
最後に身を寄せた西の秦で、穆公は娘を含む5人の女を彼に与えた。その中には、秦から逃げ帰った甥の懐公の妻だった懐嬴もいた。重耳はためらったが、国を取るためには秦との結びつきが要ると説かれて受け入れた。紀元前636年、恵公の死に乗じて、穆公は兵をつけて重耳を晋へ送り込んだ。黄河を渡るとき、狐偃は、自分は旅の間に多くの過ちを犯したので、ここで暇をいただきたいと申し出た。重耳は、あなたと心を一つにしないなら河の神に罰せられよう、と誓って璧を河に投げ入れた。重耳は晋に入って即位した。『史記』の数えで62歳だった。
即位の直後、恵公の旧臣が宮殿に火を放って彼を殺そうと企てた。それを知らせに来たのは、かつて彼の袖を斬った宦官の披だった。文公は会うことを渋ったが、披は、あのときは主君の命に従っただけで、今の主君はあなただと言った。文公は彼を許して謀反を知り、難を逃れた。
文公は放浪をともにした臣を重く用いた。狐偃、趙衰、先軫らである。一方、従者の一人の介子推(介之推)は、天が公子を立てたのに自分の手柄のように言う者たちと並びたくないと言って、母とともに山に隠れた。後代の伝説では、文公が彼を山から出そうと火を放ち、介子推は木を抱いて焼け死んだとされ、その死を悼んで火を使わない「寒食」の風習が始まったという。焼死の話は『春秋左氏伝』や『史記』には無く、戦国時代以降の書物に現れる、後から付け加えられた物語と見られている。
文公の治世は9年と短いが、その間に晋は中原の主役になった。紀元前635年、内乱で都を追われていた周の襄王を都に戻し、王を守る者としての名を得た。紀元前632年、北上してきた楚の軍と城濮の戦いで向き合ったとき、彼はかつての約束どおり軍を三舎退かせたうえで戦い、楚を大破した。その後、践土で諸侯を集めて盟を結び、周王から覇者として認められた。斉の桓公に続く、春秋の二人目の覇者である。
紀元前628年、文公は死んだ。彼が整えた三軍の制と、それを率いる有力な卿たちの体制は、その後100年以上、晋を中原の覇権国の座に保った。しかし時がたつにつれて卿の家々が君主をしのぎ、最後には韓、魏、趙の三家が晋を分け合う(三家分晋(戦国時代の始まり))。文公が国を強くするために作った仕組みが、やがて晋という国そのものを消したことになる。