人物

伍子胥

Wu Zixu
? – BC484年
呉重要度 4

概要

楚の平王が父と兄を殺した。昭関を抜けるとき一晩で髪が白くなった。呉で闔閭を王にし、孫武を推し、楚を破って平王の屍を鞭打った。「日暮れて道遠し」。夫差に越を滅ぼせと言って聞かれず、剣を賜った。「私の目を東門に掛けよ。越が入るのを見る」。

所属

呉

関わったできごと(1)

柏挙の戦いBC506年 · 復讐

本文

生まれた年は分からない。名は員、字は子胥。春秋時代の南方の大国、楚の名門の家に生まれた。春秋時代は、周の王の力が衰え、各地の諸侯が覇を争った時代である(春秋の争覇と鉄製農具)。楚は長江の中流を本拠とし、北の中原の国々と並ぶ強国だった。その生涯は、主に司馬遷の『史記』の伍子胥列伝によって伝えられている(『史記』の完成)。

伍子胥
伍子胥Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

父の伍奢は、楚の平王の太子建の守り役(太傅)を務めていた。太子の妃として秦から姫を迎えることになったとき、もう一人の守り役の費無忌は、姫が美しいのを見て、平王に自分の妃にするよう勧めた。平王は息子の妻となるはずの女性を自ら娶った。太子の恨みを恐れた費無忌は、太子と伍奢が謀反を企てていると讒言した。太子建は国外に逃れ、伍奢は捕らえられた。

費無忌は、伍奢の二人の息子も生かしておけば災いになると考えた。平王は伍奢に命じて息子たちを呼び寄せさせ、来れば父を許す、来なければ父を殺す、と伝えた。兄の伍尚は、行っても父を救えないことは分かっているが、父に呼ばれて行かないのは不孝だ、仇はお前が討ってくれ、と言って都へ向かった。弟の伍員は、行けば三人とも殺されるだけだと見抜き、逃げた。紀元前522年、父と兄は殺された。

月岡芳年『淮水月 伍子胥』
月岡芳年『淮水月 伍子胥』Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

伍子胥は、宋へ、鄭へと逃れ、先に逃げていた太子建と合流した。だが太子は鄭で殺され、伍子胥は太子の幼い子の勝を連れて、楚の東の新興国、呉をめざした。楚の追っ手が迫る中、国境の関所を抜けようとして苦しみ、一晩で髪が真っ白になったという話は、のちの『呉越春秋』などに見える伝説である。長江の岸で追いつめられたとき、一人の漁師が舟で向こう岸へ渡してくれた。伍子胥が礼に百金の値の剣を差し出すと、漁師は、楚の国はあなたを捕らえた者に粟5万石と高い爵位を与えると触れている、どうして百金の剣を欲しがろうか、と言って受け取らなかったと『史記』は伝える。呉に着くまでに病に倒れ、物乞いをしながら道を進んだ。

呉では、王位を狙っていた公子光に近づいた。伍子胥は、光に専諸という勇士を引き合わせた。紀元前515年、専諸は宴の席で魚の腹に短剣を隠して呉王僚に近づき、刺し殺した。専諸もその場で殺されたが、公子光は即位して呉王闔閭となった。伍子胥は重臣として国政に参与し、都の城を築き、軍を整えた。兵法家の孫武(孫子)を闔閭に推したのも伍子胥だと伝えられる(『孫子』の兵法)。

『孫子』の兵法に関わる図版:Bamboo book - unfolded - UCR
『孫子』の兵法Wikimedia Commons vlasta2, bluefootedbooby on flickr.com · CC BY 2.0

紀元前506年、闔閭は伍子胥と孫武らを率いて楚に攻め込んだ。呉軍は柏挙で楚の大軍を破り、5度の戦いに勝って楚の都の郢に入った。仇の平王はすでに亡くなっていた。伍子胥は平王の墓をあばき、遺体を引き出して300回鞭打った、と『史記』は書く。「屍に鞭打つ」という言葉はここから来ている。

楚に仕えていた旧友の申包胥は、山中から人を送って、あまりにひどいやり方だ、天の道に背くものだ、と伍子胥を責めた。伍子胥はこう答えた。日は暮れたのに道はまだ遠い。だから道理に逆らうようなやり方をするしかないのだ。「日暮れて道遠し」の言葉の出どころである。申包胥は西の秦に赴き、宮廷の庭で7日7晩泣き続けて援軍を得た。秦の軍が来て、呉の国でも内紛が起き、闔閭は楚から兵を引いた。

蘇州の伍子胥像
蘇州の伍子胥像Wikimedia Commons This illustration was made by Peter Potrowl . Please credit this with : © Peter Potrowl in the immediate vicinity of the · CC BY 3.0

呉の次の敵は南の越だった。紀元前496年、闔閭は越王勾践と戦って傷を負い、それがもとで亡くなった。後を継いだ子の夫差は、父の仇を討つことを誓い、2年後に越を大いに破って、句践を会稽山に追いつめた。句践は降伏を申し入れ、呉の重臣の太宰嚭に賄賂を贈って取りなしを頼んだ。伍子胥は、いま越を滅ぼさなければ必ず後悔する、と強く諫めたが、夫差は太宰嚭の言葉を容れて越を許した。

夫差はその後、北の中原に勢力を広げることに熱を上げ、斉を攻めようとした。伍子胥は、越こそ呉の腹の中の病であり、斉は皮膚の病にすぎない、と何度も諫めた。夫差は聞かず、斉に勝って帰るたびに伍子胥を疎んじた。伍子胥は呉の行く末を悲観し、使者として斉に行ったとき、息子を斉の知人に預けた。太宰嚭はこれを、伍子胥が他国と通じている証拠だと夫差に吹き込んだ。

紀元前484年、夫差は伍子胥に属鏤という名の剣を与え、自害を命じた。伍子胥は家の者に言った。私の墓の上に梓の木を植えよ、夫差の棺の材にできるように。私の目をえぐり取って呉の都の東の門の上に掛けよ、越の軍が攻め入って呉を滅ぼすのを見届けたい。そして自ら首をはねた。これを聞いた夫差は激怒し、遺体を革の袋に入れて長江に投げ込ませた。呉の人々はこれを哀れみ、江のほとりに祠を建てたという。

その後、句践は国力を蓄え、紀元前473年、ついに呉を滅ぼした(越が呉を滅ぼす)。追いつめられた夫差は、あの世で伍子胥に合わせる顔がない、と言って顔を布で覆い、自害したと伝えられる。伍子胥の予言は、11年後に現実となった。

伍子胥は、江南の人々の間で長く祀られた。いまの蘇州の城の門の一つは胥門と呼ばれ、伍子胥の名にちなむと伝えられる。銭塘江の大潮は、伍子胥の怒りが波となって押し寄せるのだという伝説も生まれ、伍子胥は潮の神として祀られた。江南の一部では、端午の節句はもともと屈原ではなく伍子胥を祀る日だったという言い伝えもある。父と兄の仇を討つために祖国を捨て、異国で仇を果たし、その異国の王に死を命じられた人の物語は、「日暮れて道遠し」「屍に鞭打つ」という言葉とともに、日本にも伝わって語り継がれている。

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