できごと

タニスの王墓

Royal tombs of Tanis
BC1000年頃
年に諸説あり重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1000年頃の版図を描いています(31勢力)。

概要

第21王朝の王プスセンネス1世が、デルタの東の都に、盗掘されない墓を作った。1940年に手つかずで見つかり、銀の棺と金の面が出た。ツタンカーメン以来の完全な王墓だが、戦争の年で、誰も見向きしなかった。

場所

タニス
30.98°N 31.88°E · エジプト

関わった人(1)

プスセンネス1世?–BC1001年頃 · 王

本文

紀元前1100年ごろ、エジプトの新王国は終わりを迎えようとしていた。東地中海を揺るがした混乱(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)のあと、東地中海の国際的な交易は細り、国庫は空になり、テーベの王家の谷では、墓掘りの職人たちが給料の遅れに抗議して仕事を放り出し、やがて王の墓を荒らす盗掘が横行した。前1069年ごろ、ラメセス11世が亡くなると、国は二つに割れた。北のナイルのデルタは、タニスに都を置いたスメンデスとその子孫の王たち、第21王朝が治め、南のテーベは、アメン神の大祭司たちが事実上の王のように治めた。第三中間期と呼ばれる時代の始まりである。

タニスは、デルタの北東の端、ナイルの支流のほとりの町である。聖書にはツォアンの名で現れる。地中海とパレスチナへの出口を押さえる位置にあった。第21王朝の王たちは、ここをテーベにならった都にしようと、アメン神の大きな神殿を建てた。その材料には、少し離れたところにあったラムセス2世の都ピ・ラメセスから運んだ石材や彫像やオベリスクが使われた。ピ・ラメセスは、ナイルの支流の流れが変わって港の働きを失い、捨てられていたのである。

プスセンネス1世の黄金のマスク
プスセンネス1世の黄金のマスクWikimedia Commons Larazoni (Ms Rafaèle) · CC BY 2.0

プスセンネス1世は、この王朝の3代目の王で、前11世紀の後半、40年を超えて王位にあったとされる。テーベのアメンの大祭司ピネジェム1世の息子とされ、北の王家と南の祭司の家とが血で結ばれていたことを示している。その名は、町に現れた星、という意味である。テーベの王家の谷の墓が次々に荒らされていくのを見ていた王たちは、自分の墓を、人目につかない砂漠の谷ではなく、都の神殿の壁の内側に、地面の下に作った。神殿の囲いの中なら、番人の目が届く。

1929年、フランスのエジプト学者ピエール・モンテが、タニスの発掘を始めた。ラムセス2世の名を刻んだ石がおびただしく出てくることから、彼はタニスこそ聖書に出てくるラムセスの町だと考えていた。しかし、のちの発掘で、本当のピ・ラメセスは、そこから南へ30キロほど離れた別の場所にあったことが分かる。タニスの石は、運ばれてきたものだったのである。

現代のタニスの様子
現代のタニスの様子Wikimedia Commons Original uploader was Markh at en.wikipedia · Public domain

1939年の初め、モンテは神殿の囲いの南西の隅で、地下に石で組まれた王墓の群れを見つけた。3月には、その一室で、鷹の頭をかたどった銀の棺が見つかった。第22王朝の王シェションク2世のものだった。開棺には、エジプトの国王ファルークも立ち会った。そして、隣の部屋の封じられた扉の奥に、さらに別の王の墓室が手つかずで残っていることが分かった。

その墓室が開かれたのは、1940年2月である。中には、ラムセス2世の息子メルエンプタハのために作られた赤い花崗岩の石棺が、名前を彫り直して使われていた。その中に、黒い花崗岩の人の形の棺があり、さらにその中に、全身を銀で作った人の形の棺が納められていた。王の顔には、金の仮面がかぶせられていた。エジプトには銀がほとんど産しないため、銀は金よりも貴重とされることがあった。遺体のまわりからは、金の指輪や腕輪、ラピスラズリをはめた胸飾り、金と銀の杯など、数多くの宝が見つかった。墓の主はプスセンネス1世だった。同じ墓の別の部屋からは、次の王アメンエムオペトや、王に仕えた将軍の埋葬も、のちに荒らされないまま見つかっている。

1922年のツタンカーメン王墓の発見以来の、ほとんど手つかずの王墓の発見だった。しかし、世界はほとんど注目しなかった。前の年の9月に第二次世界大戦が始まっており、1940年の4月にはドイツ軍がデンマークとノルウェーに、5月にはフランスへと攻め込んだ。新聞は戦争の記事で埋まり、エジプトのデルタの墓に紙面を割く余裕は無かった。モンテ自身も、戦争のために発掘を中断せざるをえなかった。

ツタンカーメン王墓の発見に関わる図版:The Moment Carter Opens the Shrine
ツタンカーメン王墓の発見Wikimedia Commons Harry Burton · Public domain

ツタンカーメンの墓と違い、プスセンネスの遺体はよく残っていなかった。デルタの湿った土地では、地下の水が墓に染み込み、王の体は骨だけになっていた。木の棺や布や、生ものの多くも朽ちていた。骨を調べた研究者たちは、王が高齢まで生き、ひどい関節の病を抱えていたと見ている。

プスセンネスの銀の棺と金の仮面は、いまカイロのエジプト博物館に、ツタンカーメンの宝の近くに並べられている。その輝きはツタンカーメンの宝に劣らないが、訪れる人の多くは素通りしていくと言われる。1981年の映画『レイダース 失われたアーク』は、1936年のタニスを、伝説の契約の箱が眠る砂に埋もれた都として描いた。実際には、その頃のタニスでは、モンテの発掘が進んでいた。契約の箱は出なかったが、代わりに、戦争の陰に隠れた銀の王が眠っていた。いまもタニスでは、フランスの調査団による発掘が続いている。

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