遺体を、家に返す
概要
南北戦争では、兵が故郷から遠い戦場で死んだ。夏の鉄道で何日もかけて運べば、家に着くころには見られる状態ではない。医師トマス・ホームズらが、動脈から薬液を入れて腐敗を遅らせる方法を売り込み、戦場のそばに天幕を張って商売にした。金を払える家の息子だけが、家に帰れた。決定的だったのは大統領の遺体である。暗殺されたリンカーンは防腐処理を受け、二週間かけて各地を巡り、沿線の人々がその顔を見た。死者を土に返すまでのあいだ、専門の業者が預かるという形が、ここでできた。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
エイブラハム・リンカーンAD1809年2月12日–AD1865年4月15日 · 遺体が旅をした本文
1861年から65年まで続いた南北戦争では、兵士の死者がおよそ62万人にのぼった。近年の推計では75万人に達するとも言われる。その多くは、故郷から何百キロも離れた土地で死んだ。ヴァージニアの森で、テネシーの川べりで、ペンシルベニアの麦畑で。死者の大半は戦場の近くに急いで掘った穴に埋められ、名前の分からないまま葬られた者も多かった。
この戦争には、それまでの戦争と違うところがあった。鉄道が通っていて、遺体を遠くまで運べるはずだった。モールスの電信の線が張られていて、誰が死んだかが数日のうちに家族に伝わった。新聞には戦死者の名簿が載った。知らせを受けた家族は、せめて息子の体を返してほしい、故郷の墓に入れたいと願った。

だが、季節が夏であれば、木の箱に入れた遺体を汽車で何日も運ぶうちに、腐敗が進んでしまう。家に着いたころには、棺を開けて顔を見ることはできない。臭いを嫌って、鉄道の係員が積み込みを断ることもあった。氷を詰めた箱で運ぶ工夫もあったが、高くつき、遠くまでは保たなかった。
そこへ現れたのが、遺体に薬を入れて腐るのを遅らせる人々だった。死んだ体の動脈に管を差し込み、ポンプや重力を使って薬液を送り込む。血管の道を通って液が体じゅうに行き渡り、腐敗が遅れる。この考え方自体は、18世紀のヨーロッパで解剖の標本を長く保たせるために工夫されていたものである。南北戦争では、それを戦場のそばで商売にする者たちが出てきた。
よく知られているのが、ニューヨークの医師トマス・ホームズである。戦争の初め、1861年5月に北軍の若い大佐エルマー・エルズワースが撃たれたとき、その遺体に防腐の処置が施され、ワシントンで多くの人が棺の中の顔を見た。処置したのがホームズだったと伝えられ、評判を呼んだ。ホームズは戦争中に4000体を処置したと自ら語っている。ほかの業者たちも戦場の近くに天幕を張り、看板を出し、将校と兵士とで値段を分けて客を待った。
つまり、家に帰れるかどうかは、払える金で決まった。士官の家族や裕福な家は息子の体を取り戻せたが、貧しい家の兵は戦場の土に残された。業者の中には法外な値段を取る者や、処置をしたふりをする者もいて、北軍は1865年、業者に許可を求める命令を出している。
この技術を国じゅうに知らしめたのは、大統領の遺体だった。1865年4月14日の夜、エイブラハム・リンカーンはワシントンのフォード劇場で撃たれ、翌朝亡くなった。遺体はホワイトハウスで防腐の処置を受けた。4月21日、棺を載せた特別列車がワシントンを出発する。3年前に病で亡くなった息子ウィリーの棺も、同じ列車に載せられた。
列車は、4年前にリンカーンが大統領に就任するためにイリノイからワシントンへ来た道を、おおむね逆にたどった。ボルティモア、ハリスバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、オールバニ、バッファロー、クリーヴランド、コロンバス、インディアナポリス、シカゴ。大きな町では棺が駅から出されて公会堂などに安置され、蓋が開けられた。人々は何時間も列に並んで大統領の顔を見た。線路沿いの小さな町でも、夜中に人々がかがり火をたいて列車を見送った。
5月3日、列車は故郷のイリノイ州スプリングフィールドに着き、翌日、リンカーンはオークリッジ墓地に葬られた。死から3週間近く、距離にしておよそ2700キロ。顔は日を追って黒ずみ、付き添った防腐の係が化粧を直し続けたと伝えられる。それでも、何週間もたった遺体を人々が見送ることができたこと自体が、この技術の何よりの宣伝になった。
戦争が終わると、天幕をたたんだ業者たちは町へ戻り、葬儀屋として店を構えた。それまでのアメリカでは、日本と同じく、死者は家族が体を洗って着替えさせ、家の居間に安置し、近所の人々が弔いに来るのがふつうだった。ここから、遺体を扱うのは家族ではなく、技術と免許を持った他人の仕事になっていく。場所も家の居間から、業者が持つ専用の建物、のちに葬儀場(フューネラル・ホーム)と呼ばれる場所へ移った。
薬も変わった。初めのころは、砒素や水銀などの毒性の強い薬が使われた。19世紀の終わりからホルムアルデヒドを使う方法が広まり、砒素は20世紀の初めにかけて使われなくなる。南北戦争のころの古い墓地の周りでは、いまも土や地下水から砒素が見つかることがあると報告されている。
死者をどこまで元の姿のまま留めておくか。土に返すのが一番早く、焼くのもまた早い(近代の火葬)。姿を留めておくには、手間と金が要る。南北戦争が押し出したのは、その「留める」ほうだった。人が遠くで死ぬようになり、運ぶ手段ができ、もう一度顔を見たいという願いが金を払わせた。アメリカで遺体に防腐処理を施す習慣は、いまもこの国の葬儀の特徴として残っている。
半世紀後のヨーロッパでは、逆の問いが突きつけられた。第一次世界大戦の死者はあまりに多く、誰の体であるかさえ分からないことが多かった。返せない遺体をどう弔うのか。その答えの一つが、1920年にロンドンに設けられた無名戦士の墓である。